NUMBER .005
熱のこもらない陽射に当たり、目が覚めた。
若干からだの動きを妨げる傷はあるが、鉄杭に繋がれた鎖ほど自身を縛ってはいない。
この部屋で朝を迎えるのはこれで二度目。彼女が出て行ってから丸一日が過ぎたことになる。
僕は枕元に置かれていたパーカー付きの服に袖を通し、それから洗面所へ向かい、冷たい水でごしごしと顔を洗う。歯を磨き口をすすいで、髪を整える。眼鏡はなかったが、あれはほぼ伊達のようなものだった。なくても不自由しないし、そもそも麻帆良にくる以前はかけていなかった。
日本へ教師をしに行くことに決まってから、アーニャに言われたのが、そもそものきっかけだった。
眉を潜めながら「教師は貫禄があったほうが生徒に慕われやすいのよ。あんたただでさえ可愛い顔してるんだから、眼鏡でちょっとは中和した方がいいんじゃない?」と言ったアーニャがその脳裏で考えていることなど、その時の僕に読み取れることではなかった。
おそらくその時の自分には、父に会うという目標しか前方を飾っていなかった。
鏡の前の、眼鏡をかけない自分の顔を見ながら、懐かしさに口元が歪む。
今では手の届かないその頃の思考を、完全に再現する事は難しい。たった一年前のことだというのに、その間に起きた出来事は僕をこれ以上になく揺るがしている。
顔面をタオルで拭き、部屋に戻って壁に寄りかかっている杖を手にする。
僕は、今此処に居ない、杖をここまで運んできてくれた刹那さんを、想った。
一度息を吐き出す。三度目のお礼を呟き、その部屋を出た。
まずは詠春さんに連絡をとることにした。
幸い携帯電話の充電は切れておらず、電波もある。数秒で繋がった。出たのは執事のような女性の声だ。長に取り次いでもらう。何分もしないうちに、彼は出てくれた。僕は結果と、それから過程を簡潔に説明する。
「刹那君からも大体は聞いています。今回はご苦労だったね」
「いえ」
僕はなるべく感情を込めないように答える。
「ネギ君を襲った者たちは刹那君が払ってくれました」
「そうですか。先ほどまでお世話になっていたので、お礼を伝えてくださいませんか」
「こちらもそう連絡が取れるわけではないのですが。分かりました、伝えます」
「ありがとうございます」
「いえ。それとネギ君。今からこっちへこれるかな」
「そちらというと、総本山ですか?」
「うん。是非来てほしい」
学園の事を除けば、特に用事はなかったので頷いた。学園も、詠春さんから学園長に話がいくだろうから問題はない。
今回の詳しい話も気になる。そしてあれ以来姿を見せなかった――刹那さん。
眠っている間に来ていたのだろう。鍋にはお粥が作られてあったし、朧ながらもタオルを換えてくれたことにもなんとか気付けた。
僕は電話を切る。
総本山へ向かうと、偉大な門構えの向こうで、枯葉の吹雪と日本女性の代表のような方々が総出で迎えてくれた。
脇に枯れた桜を携えた中央の通りには、その中でも特別麗しい人の姿があった。女性と呼ぶには幼いその人は、自分も良く知る少女である。
近づくにつれはっきりと顔が分かり、僕は自信なくも名前を呟いてみた。
「木乃香……さん」
何故だろうという疑問は起きなかった。
ここは彼女の実家であるし、父、近衛詠春さんが、彼女に帰るのが遅くなると知らせれば心配してくれるだろう。そのくらいは彼女を信じている。僕の「信じる」という言葉がそれほど信憑性を持っていなくても。せめて心の中だけでなら許してもらおう。
それに詠春さんが「是非来てほしい」といったのだ。何かあるのだということは想像に易い。とはいえやはり麻帆良に居るはずの彼女が現れたのには、眉間を寄せるしかなかったが。
――眉間を寄せる?
僕は心の中で嘲笑する。それはおそらく。いや、考えないでおこう。
木乃香さんはとてとてと駆け寄ってくる。そしてまだ傷の残る頬に手を当てて癒してくれる。それから腕を、手の甲を。
詠春さんが娘のその様子をじっと眺めていた。その表情には苦笑いが浮かんでいる。僕はその理由に気付き、慌てて木乃香さんの身体を離そうとするが、制止される。
「あかんて。じっとしててな、ネギくん。今治してあげるから」
木乃香さんのそれはまるで恋人同士の触れ合いだった。二人でいる時なら構わなかったのだが、なにせここには彼女の父や、他の家の人も居る。
だが、居心地が段々と悪くなっていく僕に気付かないのは、それだけ彼女が真剣に治癒に専念していたということ。だから僕は何も口にすることは出来なかった。
そんな自分を、詠春さんは微笑ましく見てくれていたというのは、僕の自惚れなのだろう。
本当なら思うことさえ許されない。木乃香さんを傷つけ続けていることには変わりないのだ。
それなのに彼女は癒してくれる。だから僕は、彼女を少しでも癒したいと思う。
その時、此処がどこだとか、そんなことは問題ではなかった。正確には頭から抜け落ちていた。必要のない野菜の皮を切り落としたみたいに。
まだ貫かれた腹部は治りきっておらず、痛みが神経を引き千切ろうとするように全身の動きを妨げる。それでも腕の中に収めた木乃香さんは、ほんの数日離れていただけなのに小さくなってしまったような所感を抱く。
もう刹那さんのことは聞けそうになかった。
「木乃香を、よろしくお願いしますね」
背中から詠春さんの声が聞こえた。それに反応して彼女は顔を上げようとするが、僕はさせない。代わりに答えた。
「はい」
失礼だと分かっていながら、振り向くことが出来なかった僕は、一体何なのだろう。
その疑問に応えてくれるものなど誰も居なかった。
麻帆良に戻る為に風のゲートを開くと、詠春さんの魔力が微細ながら強張ったのが分かった。
表情を噛み潰しながら、彼は尋ねてくる。隣に居た木乃香さんも、僕を見ていた。
「それは、まさか」
「はい。少し苦労しましたが」
僕は努めて表情を出さないよう言うと、彼の顔はますます強張った。
「その年でゲートを使えるようになるとは……。しかし、修学旅行のときは使えませんでしたよね?」
「ええ。魔法はエヴァンジェリンさんに、体術は古老師に師事しまして。つい最近会得しました」
「それにしても、流石、としかいいようがありません。それだけに今回ネギ君にこれだけの傷を負わせた敵というのが――」
感心というだけの表情ではない彼の姿を見上げながら、木乃香さんは僕の服の裾に手を伸ばしていた。深い二つの琥珀が僕に向けられている。彼女に微笑むと、詠春さんに向き直った。
「それではそろそろ失礼します。また何か動きがあれば伝えてください。僕も全力で木乃香さんを守ります」
彼が顎を引くのが見えて、僕は木乃香さんの腕を抱えると、麻帆良に繋がるゲートをくぐった。
風が髪を煽る。
意識は台風の目の中。周りは蹴散らされていって、それをただただ諦念に似た心境で眺めている自分がいる。
瞼を持ち上げればそこには変わり映えのしない麻帆良の風景が広がっている。
戻ってきた。
ようやくこの地に。
僕と木乃香さんは直ぐに自分達の部屋へ向かった。
そこですることはもう、決まっていた。
明かりのない部屋で目を覚ます。
傷は治ったとはいえ、蓄積されていた疲労の所為で随分と長く眠り込んでしまっていた。
気付けば夜の一番深い時間。闇は金色に彩られていて、とても幻想的だ。
布団を抜け出し、汗や体液を洗い流すためにシャワーを浴びる。既に苦手ではなくなっていた。行為を繰り返せばそれは必然なのかもしれない。
それに大体は木乃香さんが一緒に入ってくれ、身体を洗ってくれる。
そう、あの人のように乱暴にではなく、優しく、柔らかい肉感を感じながら、僕は洗われていく。表皮の細胞一つ一つ丁寧に磨いてくれているかのように。最後の防壁を傷つけないように。
それから僕らはごく当然のように薄い粘膜を擦り合わせる。彼女の後ろから回り込んで抱きしめる。その中に潜り込む。思考の道筋は段々と一本道になっていく。僕らは必死に絡み合うのだ。
頭がくらくらする。湯当たりしそうだ。妄想をそこまでで出切り上げると、蛇口を捻り湯を止めた。だが扉を開けようとしたところで、木乃香さんが入ってきた。
「あれ、ネギくんもう出るんや」
「はは。すみません。……って、前隠してくださいよ」
「あー、うん。あはは、ごめんなぁ。それはそうと、一緒に入ろ」
「えっと、僕もうシャワー浴びたんですけど」
「うちと入るの嫌なん?」
「そんなことはないですが」
「ほんなら入ろ。背中流してあげるえ」
僕はその時、ある種の倒錯的な感情に襲われていた。
背中を押す木乃香さんに向き直って、肩を押し出す。僕は、一歩後ろで冷静に自分自身を眺めていた。冷めた眼で。
「あまり、困らせないで下さい。木乃香さん」
風呂場は湯気が立ち上っていて、その中で僕の声はくぐもっていて。彼女の声だけが明瞭だった。
どうしてそのような事を言ったのが、自身でも説明がつかない。嫌だったわけではない。鬱陶しかったわけでもない。
煩雑した思いだけがその時の僕を圧していた。
「あ……、ごめんな。無理矢理誘って……」
後ろ退り謝る彼女の表情に気付き、なんとか笑顔を取り繕う。何よりも煩わしいのは、自分になのかもしれない。
上半身は裸のまま、カーテンを開け、窓を開ける。空には月も星もない。風だけが吹いている。
熱気がこもっていたため丁度良いかと思えば、深夜であることも手伝って、吹き込む風は先ほどの自分の心のように冷え切っていて身震いした。
――僕はやはり彼女を癒すことは出来ないのではないか。
闇の深淵で僕は考える。失ってしまった存在はあまりに大きくて、押しつぶされないように足を踏みしめる力も備わっておらず。そんな状況で一人の人間を支えることなど所詮出来はなしない。
窓を閉じて服を着る。随分身体が冷えてしまったので、温かい牛乳を飲むことにする。
適当なカップに注ぎレンジで温めていると木乃香さんが出てきた。自然と彼女の表情筋に意識が集中される。“ちゃんと”笑顔だった。
「ミルク、飲みますか?」
「うん、お願い。砂糖も」
僕は彼女専用のマグカップに牛乳を注ぐ。八分目まで満たすと、棚の容器を取り出し砂糖を加える。その間に自分のが温まり、交代で彼女のカップをレンジに入れる。
電子音を聞いてカップを取り出すと、彼女に渡した。柔らかな微笑を浮かべて、木乃香さんはそれを受け取る。
「ネギ君も今度マグカップ買いに行こうか」
「いえ、僕は――」
また襲い掛かってくる畏怖の念。今度は抵抗できた。
「いいですね。夜が明けてたら散歩がてら外に出て、軽くご飯を食べて。お店が開く頃に見にいきましょう」
彼女はぼんやりと、虚ろに虹彩を漂わせているようにも見える。彼女の中の自分は揺らいでいるのだろうか。
「修行、もしよければ見ててくれませんか」
「ええの?」
「はい。見ていてほしいです」
僕の境を、それで少しでも共有してくれれば。
足りないながらも、彼女の傷に清潔な包帯を巻く事ができるなら。
短い包帯を彼女に巻きつけて、微かながら痛みや外敵から妨げられば、それで。
湯を浴びたはずなのに、どこか夢現の彼女は、だけどはっきりと頷く。僅かでも笑顔があった。
太陽が昇ると、僕と彼女は部屋を出た。霧に霞む空を見上げることはない。
麻帆良学園の敷地は広い。クラブ棟まででもかなりある。そこを通り抜けるまでが長い。
だがそこからは直ぐだ。
霜を被った芝生をしゃりしゃりと踏み締めて、学園の裏にある丘を登る。
思わず細める目に飛び込んだのは、陽に溶ける黄金。月よりも夏の花を想像させる少女の髪の色。
頂上を拝むことの出来ない世界樹の傍には、短い掛け声を上げる少女が居た。武術の型だろうが、演舞でも見ているようだ。
隣を歩く木乃香さんが、少女に手を振る。対して、少女の方は驚嘆を含めて木乃香さんを見すが、直ぐにそれを一粲で隠した。
古菲は尋ねない。こうみえて聡い少女のこと。何故この場に木乃香さんがいるかなど、問わずとも理解しているのだろう。もっとも、当然ながら事情は知らないだろうが。
だから僕は、汎愛の情を込めて少女を呼んだ。
「おはようございます、古老師」
隣に居る大切な彼女にとって、特別に聞こえないように。そこに含まれるものすべてを平等に伏すことで示す。
「おはようネギ坊主。もう身体はほぐしてあるな。今日は昨日の復習を少しと、それから新しい型を教えるアル。木乃香はそこに座っているといいアルよ。その辺りは比較的霜が少ないアルから」
気遣いも忘れない。彼女は穏かな微笑みで返す。
「ありがとうな。んじゃネギくん、頑張って」
彼女の頭を撫でる。それから爪先の方向を変えた。
「古老師、お願いします」
僕は構えた。
風はなく作り物のように雲は動かない。
だけれどもそんなことは気にならない。頭上のことなど自分にとってはちっぽけな出来事にすぎない。
空から光の矢など降ってはこないし、炎の精霊が突撃してくることもない。ましてや剣の切っ先が突き付けられることもない。
早朝の修行も終わり、平穏な一日を僕と彼女は過ごしていた。
あの日なら想像することも出来なかっただろう情景。隣で木乃香さんが笑っている。僕にとってそれは偽りでも良かった。
笑えるならば、と。
鼻歌交じりに生活用品売り場を行き来する彼女のあとについて行く。
彼女はマグカップを手に取り、悩む。僕に渡し、意見を求める。何でも良かったので、適当な言葉を選んで返す。
――歌を歌うのは良い。そう僕が提案した。
闇の中で座り込む木乃香さんに向かって僕が言ったのだ。
明るい歌を歌えばあんたも元気になれるわよ――そんな明日菜さんの言葉を、恣意的に頭蓋に食い込ませながら。それは酷く痛みを伴った。
疼痛に襲われても、僕は木乃香さんに優しく諭すように言った。
『明るい歌を歌えば、きっと笑えるようになります。だから歌いましょう』
意図して選ばれたメロディを、木乃香さんは呟いた。口ずさむには程遠い。メロディを追っているとも言えない。言葉をひとつひとつ、音符を一音一音拾い上げていくような作業だった。
はっきりと、ひとつの譜面を描けるようになったのはそれからひと月ばかり経ってのこと。
数ヶ月以前のことを思えば、今の木乃香さんの調べはなんて軽快なのだろう。
「ネギ君、これはどや?」
ふと声に意識を戻すと、可笑しなたまねぎが焼き込まれたカップが目の前にあった。
本当に、何でも良かった。だがこれはあまりにも酷いのではないか。
そもそも彼女のセンスは悪くはなかったはずだ。冗談に違いない、とあらためて見上げてみるが、その色に変化はない。
「ええと、いや、なんていうか。よくそんなの見つけましたね」
「うん。偶然見つけたんや。それで、これええと思わん?可愛いし」
「木乃香さんがそう思うなら、きっと可愛いんだと思います」
「ちゃう。うちはネギ君の意見聞いとるんやって」
「僕は……」
確かにこれは、と思う。常人ならば誰でも眉をしかめるであろう奇天烈なイラスト。
だが僕の返答は決まっていた。
「いいと思いますよ」
だって彼女の選んでくれた物だから。
そもそもこれは自分のための放浪ではない。彼女のためのもの。
ならば彼女が良とおもえばそれはそのままの設定環境で最適化され、僕はそれを使用するだけ。
僕は笑顔が見られれば、それでいい。彼女の笑顔に癒される者の一員なのだ。
華やぐ表情に、安堵をして。
平穏だった一日が終わる。
疲労に浸り切った四肢をソファに投げ出す。
台所に目配せをすると、木乃香さんがまな板を叩いている。合わせてリズムよく後ろに縛られたエプロンのリボンが揺れる。
劣情を催しかけて、あわてて他に目をやると、食器棚に飾られた僕のマグカップが視界に入った。
目元が苦渋に歪んだ。今日一日の出来事には、笑みが浮かんだ。二つが混雑して、僕はどんな表情をすればいい分からなくなる。
どうにも、その光景に慣れるまでしばらくかかりそうだった。
××× NEXT ×××
+ 中書き +
詠春さんの喋りが敬語になったり普通になったりで安定しない人だと思うかもしれません。
が、変わったネギに対してどう接していいかわからない、ということで(何その設定
ネギがなんか老成しすぎてるなあ。でもいいかなとも。
このネギは結構心に傷を負ってると思うんで。闇の一つや二つは抱えてるでしょうて。
明日菜が死んだことで、ネギは親しい人を二度も失っているんだから。しかも一つは自分の過失もあった(とネギは思っている)。
しかし、、木乃香とネギがラブですよ。ラブ。学校ではかなりラブ臭漂ってるんじゃないかな。
刹那いなくてよかったね・・・・。ネギくん。
いや、というかまき絵や茶々丸や千雨や夕映はかなりショックだと思いますが。(のどかは嫉妬心がない、というか恋愛感情ではないような。いんちょは明日菜のことでそうなっていると思ってるから仕方ない、と考えているので)
サテ。古菲がはじめてまともに出てきました。古菲は馬鹿ではないとの信念を元にかいてみましたが、どうでしょう?
古菲は気遣いも人の心情を察することもできると思うんですよ。
とりあえず、木乃香とネギがクラスではほぼ公然の中になってるだけに・・・・色々と考えがあるのではないかな。
ああ、なんか後書き長い・・・・。。
2007.4.14
