NUMBER .004
鈴の音がする。
鼓膜を叩く、鈴の音が痛い。
地表とほぼ平行に伸びる枝の上に少女がいる。隣に座る自分。
どうしたのか、と、気遣いの欠片もなく尋ねる自分に、少女が怒るのは当然のことだった。どうかしたからここに居るのに。
鈴の音がする。
瞬間これは夢なのだ、と気づく。最後まで笑わないはずの少女が笑って、そうして自分の頭を撫でてくれた。
だからこれは夢。
水面に浮かび上がった、波紋の如き一瞬の泡。
もう少しと手を伸ばせば、少女は落ちていく。底のない闇夜に、光を消して落ちていく。
結末が分かっていても、僕は落ち行く少女の腕を掴む。
ぞくり、と背筋を悪寒が走った。碧と蒼の瞳に溢れていたはずの光がもうない。
だからこれは夢。
夢は覚めるから、それならはやく、目覚めてほしい。
そう、僕は視界が歪むのを、必死で待っていた。そこに転がるエメラルドとサファイアの原石を傍観しながら。
† † † † †
額がひんりやりと冷たかった。
目蓋は閉じたまま額に手をあてると、濡れたタオルが置かれていた。暫くそのままにしておくと、汗をかいていた手の平が冷やされて、脳が覚醒していくのが分かる。
息を吸い、酸素を胸に取り込もうとするが、どうも上手くいかなかった。
見覚えのない壁紙。装飾品などはなく飾り気は少ないが、手が行き通っているのか綺麗な部屋だ。
何故か首が回らないため、眼球だけを動かしていると、円形の掛け時計が眼に入った。
――深夜、か。
針の先と、人工的な部屋の明るさから判断する。
森の中、彼女が自分の横に座って、怒っていた。それから。……それから、なんだろう。
先ほど見ていた夢を手繰ろうとするが、途中で途切れてしまう。
――もしそうなら、どれだけいいか。
そこまで考えたなら、彼女の瞳から光が失われていくところまで思い出してしまう、自分を呪う。
起きようと、腹筋に力を込める。
「っつ」
瞬間、衝撃が走った。身体の力が抜け、起き上がりかけていた上半身が、ぼふっと気の抜けた音をたてて落ちる。
やけに圧しかかってくる重力に敵わず、やむなくベッドへおしつけられる。
「ネギ先生。気付かれましたか」
眠っていたのか、くぐもらせながらもはっきりとした声の主は、傍まで寄ってきて、額から落ちたタオルを直してくれる。
「……刹那さん」
不用意に見つめてしまい、タオルを直し終えた彼女と瞳が合う。
どうしてか彼女は相手の気分を害さない程度にそっと逸らす。僕が、視ていた事に気付かれ罰悪く逸らす前に。
「熱がありました。怪我から来るものだと思いますが、高かったのでもう暫く休んでいてください」
それは忠告のように聞こえた。忠告は、彼女の優しさだった。それに救われる自分が、今までどれだけ沢山居ただろう。
僕は大人しく頷く。体中が悲鳴を上げていて、それが精一杯だった。
だからこの先、喉を声が通ったのは、気力以外の何物でもない。
「助けて、くれたんですね」
彼女にお礼が言いたいという、ちっぽけな気力の為に、振り絞る。熱が上昇しているような気もする。
「気を失う前、声がしました。刹那さんの声。――ありがとうございます」
「いえ。私は、ただ。自分の任務を果たしただけですから」
「でもあの場所は敵の陣地みたいなものでしょう。刹那さんがそんな僕みたいな、無謀なことをするとは思えない」
吐き出す息に自嘲を混ぜて、落としていた瞼を持ち上げる。
敵いませんね、と。刹那さんは同じように嘆息をついた。
「聞いたのですよ。今朝お嬢様の父方から連絡がありまして。ネギ先生が心配だ、と。それで失礼を承知で追跡させていただきました」
「そうですか」
「はい」
風の流れない部屋で、二人の声だけが壊れたラジオのように途切れながら流れる。
普段言葉を交わさない相手といることは、もっと居心地が悪いものだと思っていた。
二人の間には、当たり障りのない言葉のテンプレートが敷れているから。
定められた配置に、定められたリンクが定められたように開かれる。定められた色で飾られた文字。定められた枠に囲まれて、ぎこちなくもそこに当てはめるべき文を思考しながらの会話。
それは果たして会話と呼べるのだろうか。
否定したい。
刹那さんとの会話の下敷きが、テンプレートだということを。
彼女は怪我人を労い、僕はお礼を返して。
いかにもだったけど、僕は、ちゃんと否定をできる。それから肯定を。
――テンプレートがあてられていた方が幸せだった、と。
考えなくていい。
ここは感情の介入を許せない場だから。
「うれしいですよ、刹那さん」
木乃香さんを想った。彼女の前には、木乃香さんがいる。それは僕が、罪悪感を無意識のうちにでも感じているからである。
まともな状態であればそんな感情の介入は許さない。そんなのは木乃香さんにとってこのうえなく失礼なのだ。
「これで助けてもらったの、二度目ですね」
「……私は」
「分かってますよ。木乃香さん、ですよね。でも僕は嬉しかったんです。刹那さんがいなければ、僕は二度も死んでる」
格段生きていたいと願っているわけではない。あの日から、死を思うことは何度もある。
木乃香さんが治癒能力を行使してくれても、僕が拙く治癒魔法で癒してあげても、完全に傷口が塞がることはない。
お互いに、失った血液は多すぎた。
だけど輸血してくれる相手はお互いに居なかった。少ない血を相手に与え、受け取り、そこに交換はあっても量の増加は望めない。
だから、僕は毎日を変わらずに繰り返している。
ただ僕はもう独りではいられなかった。血を分けた木乃香さんに、縋っている。
――だから今会えない木乃香さんを求めるように、目の前の彼女の黒髪に指を伸ばす。
重力に耐え切れなくて震える腕を、無理矢理持ち上げる。
彼女の顔は近くにあった。
黒髪に木乃香さんを重ねる。
透き通る茶の瞳に戸惑いが浮かんでいたが、僕はそれすら木乃香さんに重ねた。麻帆良に居る木乃香さんもちょうどこんな瞳の色をしていた。
そこに疑問が浮かび上がる。
――刹那さんは、このような瞳の色をしていただろうか。確か白銀のような、グレイ。
「ネギ先生……」
「ありがとうございます」
思考を中断し、二度目の感謝の言葉を彼女に。
頭を下げることはできなかったから、痛みに引きつる頬を持ち上げて笑った。
彼女は頬を僅かに上気させる。その後思い出したように、睫毛をひとたび伏せ、額の既に生温くなったタオルを換えてくれた。
それからはもう話すことはなくなったようで、僕から顔を逸らす。
「……眠ってください。起きていては、良くなるものも良くなりません」
そう言って、彼女は剣士ながらか見事な動作で片膝を立てて立ち上がった。その一連のものに、僕はやけに惹き付けられ、思わずその通った背中に声をかける。
「っ」
声を、かけようとした。だけど向こう見ずな自らの行動による傷が、それを妨げる。
幸い雰囲気だけは伝わったのか、刹那さんは振り向いてくれた。
「何処に、いくんですか」
肘だけを使い僅かに上半身を浮かす。彼女は開き始めていた距離を、再び縮める。
嬉しかった。ほんの数分のことでも。
嬉しかったのだ。下ろされた黒髪が、揺れた瞬間。
「行かない、で」
何処に行くか、本当は問うまでもなく想定できていた。
おそらく自分が情けなく敗北し、『木乃香お嬢様』に危害を加える“者”を探しに行くのだ。
分かっている。だけど僕は上擦る声を紡ぐ。
「行かないで、ください。あと少しでいい。ここに、いてください」
顎をあげる。どれだけ喘いでも呼吸は楽にならない。
邪魔にしかならない自分の声が、熱い。また熱が上がってきたのだろうか。やけに心拍が早い。身体全体に音が伝わっている。
――情けない。まだ彼女に迷惑をかけ足りないとでもいうのだろうか――自嘲の砂塵がまた襲ってくる。
瞼を落として、自分の愚かさに蓋をした。光を取り入れる自信もなく、だけれど彼女の返事に期待もしていた。
――馬鹿だな。答えは分かりきっているだろう?ネギ・スプリングフィールド。
「すみません……ネギ先生」
口角を上げ、目元を緩めるのが精一杯だった。
笑みを作ったつもりだったが、そう見えただろうか。だといい。彼女にまで余計な気持ちは背負わせたくない。
そう。本心。
なのに彼女は爪先を再びこちらに向け、ベッドに膝立てた。
僕の、タオルのずれ落ちた額に手を置く。身体が熱を持っていたせいだろうか、冷たい手の平が心地良くて思わず眼を閉じた。
閉じたまま、その手に自らの手を乗せる。これだけでも重労働だった。
彼女がびくりと震えたようだったが、視界は既に霞んでいた為、気にとめることは出来ない。二つの手の温度にすれ違いがなくなった頃、彼女は左肩に剣を負って部屋を出た。
しかし、今度は不安になどならなかった。
ここが彼女の部屋であること。
そして、先ほどまでの彼女の手の感触がまだ、残っていたこと。
扉が音を立てる前。閉じる意識の向こう側で、声がした。
「なんで。もっと、突き放して……ください。でないと私はもう――貴方を諦められなくなります」
おそらくそれは大切な言葉。
だけど再び目が覚めたら、僕はきっと忘れている。
××× NEXT ×××
+ 中書き +
木乃香がネギに依存しているのと同じように、ネギも木乃香に依存している。
だから壊れないのかもしれない。
どちらか一方が正常であれば、そんな関係は自分のせいでなければ耐えられないはず。
サテ。どうでしたかい?一場面に一話つかっちまったぁ・・・。
刹那は実はネギのこと好きだったことが判明したわけですが。
作中でネギが、「助けられたのはこれで二度目」と言っていますが、一度目は修学旅行のときのです。
そこらはまたいつか書けたらなと思います。
少し思ったのは、「テンプレート」ってこれでいいのか?と。調べてはみたのですが、おかしかったらいってください。
2007.03.27
