アネモネ
 ― 3日目 ―


 黄昏は既に過ぎて久しい。
 一人、少女はその場から踵を返す。
 居た堪れなくなった。呼吸が苦しくなっていたが、構わず走った。そんなことも、二人にとっては知らぬこと。檻の外だ。
 ただ二人の胸には、見えずとも、気付けずとも涙を流す少女がいた。
 それでも。それでも、お互いを放そうとはしない。離れようとする意思を持てなかった。
 愛しいと。
 ただそれだけが心を満たしているだけ。邪魔な言葉を全て放棄して、武装を剥ぎ取った今では。
 結い忘れたリボンが、彼女の去った場所に置き去りにされていた。
 拾い上げられることなく、踏みつけられることなく。風に煽られて舞っている。まるで忘却の彼方に位置する廃墟にうち捨てられたかのように――。
 赤いリボンの主は間際に呟く。何よりも愛しく大切な人の名前を。


 闇がその全貌をあらわしてきても、空が白くあっても、ずっと触れていていたい。
 こうして肩を抱き、背に腕を回しているのが、夢のようで。すり抜けてしまわないよう、強く腕に力を込める。
 ネギは、裕奈の震える身体を抱きながら、柔和な微笑を浮かべた。
 ――大丈夫。大丈夫だから。
 貴女は何も背負わなくていいのだ、と。深く微笑(わら)った。自分が背負うのだと。背負わせて欲しいのだと。
 これは自分の弱さが招いた悲劇だから。
 痛いのは、自分じゃない。きっと彼女なのだ。
 触れれば容易に出血してしまうくらいに、傷を負っている。自分が傷つけたのも同義。
 そんな自分が、大丈夫などというのはきっとおかしいのだろう。
 でも言わなければならない。
 出来るだけ安心をもたらせる笑顔で、彼女を抱き締めた。裕奈はネギの胸に鼻先を埋めた。
 裕奈は動かない。何も喋らない。それでいいい。言葉など、この空間には全くの不要物なのだ。
 ……それは昨日の、体育館での抱擁。ようやく腕におさめた、人の温もりを確かめる、僥倖な時間。
 人を一人傷つけることで、その上で得られる幸せがあるのかと、ネギは思わず世界を疑った。大切な人を傷つけてまで、自分が幸せを感じる事が許されていいのだろうか。そう、何度も問いかけては、否定しか出来ないでいた。客観的に見ても、そうなのではないか?と。そこまで考えた。
 だが実際に胸の中に居る少女の温かみを受け、そこに一条の木漏れ日を見た。
(だってこんなにも、愛しい)
 指一本動かすだけで痛いのに。息を吸うだけで一苦労なのに。さらに息を吐き出すなんて拷問に近いのに。
 愛しいと。想う。胸に広がる安心がある。
「本当なら――」
 言葉など不要。そう思っているからこそ、ネギは独り言を吐き出した。
「――本当なら、僕は貴方を抱き締める資格なんてないのかもしれない。自分が逃避したいがために、優しいまき絵さんに逃げ込んだんだ。僕はやっぱり、彼女が好きだったから」
 そう、独りごち。
 言うべきではない、言わない方がいい。だが、言わなければならないと思ったこと。相手を傷つけるだろう言葉を、自分の為に振るう。――そうしてネギは自嘲する。
「怖かったんです。何よりも、裕奈さんを思い続けることが。思い続けて、手が届かなくて。臆病風に吹き飛ばされそうになっても地に根を張る足を、僕は持っていなかった。
 だって僕は、逃げたんだから。村が焼かれ、親しくしてくれた人々も皆死んでしまって。それなのに情けなく逃げたんだから」
「……」
「そうして、懲りずにまた僕は逃げた。まき絵さんの想いから」
「……」
「はは。酷い人間だと笑ってください。罵ってもいい。その権利が裕奈さんにはある」
 まき絵さんにも……、と続けようとして、ネギは押し留めた。
 裕奈はしばらく黙っていた。ネギもそれ以上口にしなかった。
 沈黙が支配する空間が、不思議と重くは感じられない。あるべき場所に居座っているとさえ感じる。ただそれは心地良いというわけではなく。
 ネギは既に裕奈を解放していた。枯渇してしまった想いに水を注ぐように抱き締めていたのに、潤してくれる体温を手放していた。
 それでも、その静寂はいつだって永遠ではない。
 裕奈は顔を上げた。その視界には、苦渋の笑みを浮かべる、独りの少年が映っていた。
「……私は、さ」
 裕奈が唐突に口を開いたのは、そんな時だった。
「まき絵がネギ君を好きになったと知って、私は笑って応援するよって、言ってたんだ。ネギ君の教職をかけた期末試験が終わった頃の自分にとって、ネギ君は“頼りがいがある子供先生”だったから」
 裕奈は思う。その少年は今もきっと一人でもがいているのだ。裕奈が目の前にいるというのに、彼はずっと独りでいる。
 その孤独を、今まで誰も埋められなかったという事が、裕奈には哀しくてたまらなかった。
 明日菜でもまき絵でも埋められないものを、どうして自分が埋められるのか。
「でも、茶々丸さんとし合ったりとか、武道大会で高畑先生と戦ったりとか。そんなの見ちゃって、“頼りがいがある子供先生”が、いつのまにかそう見れていない自分に気付いて……。でもそんなこと、表にだしたり出来なかった。だって今更だったから」
 鎮痛な表情で、彼女は一言一言紡ぎだす。その糸を、ゆっくり丁寧にネギは腕に巻きつける。清聴という名の行動で。
「まき絵が嬉しそうな顔をしてネギ君のことを話している。それを笑顔で聴いている自分が一番苛立ったよ。バスケしててもネギ君ばっかり浮かんで、挙句怪我までしちゃうし、本当バカだった。いや、今でもそうなのかな」
「……そんなこと」
「後悔してる」
「え?」
「後悔してるよ」
「それは何に、ですか。僕とこうしていることがですか。そうですね、まき絵さんは貴方の大切な親友なのはかわりませんしね」
「違うよ。ネギくん。それは違う」
「意味が分かりませんよっ。僕は裕奈さんを結局傷つけて。まき絵さんも巻き込んで。自分だけが暖かい場所にいるんだ。そんなの許せるはずがない。何より自分が――」
 彼は抱き締められていた。暖かな人の温度に包まれていた。傷つけるもの全てから守るように。それはあのまき絵の言葉そのまま。
「ネギ君はさ、なんでそんなに自分を傷つけちゃうことばかり言うのかな」
 裕奈が、叫ぶ。それは確かに叫びに違いない。心が悲鳴を上げているのは、ネギだけではない。
 ここは変わらず二人以外誰も存在しない体育館であったし、既に闇はその全貌をあらわしていたのだ。
 締め付けられるのは、なんなのだろう。
 自分の心であっていいはずがない。ネギは思う。思うのだが、彼女の柔らかさに狼狽は隠せない。
「ごめんね」
 それはあの時、体育館で泣きながら彼女が言った言葉――。
「もうネギ君のこと放せないんだよ。こんな顔してるネギ君、放すなんてできない」
「ゆーな、さん」
「まき絵が傷ついてもいいよ。それでも、ネギ君が泣きそうな顔で笑っている方が耐えられない」
「……」
「分かってるのに、酷い人間だって分かってるのに……これでいいんだって思う自分もいて。それどころか幸せに感じている自分さえいるんだよ? もう自分が嫌いになりそう。ううん、とっくに自分の事は嫌いになってた。でもさ、こうしてネギ君が傍に居てくれて、きっとまき絵と一緒に帰るはずだったのに練習を見に来てくれて、今ここにいてくれて。……すごく嬉しい」
「裕奈さん」
「ねえ、私はここにいていいの? ネギ君を抱き締めて、抱き締めてもらってもいいの? ネギ君は優しいから抱き締めてても抵抗しないのかなって思う。だから、これ以上抵抗してくれなきゃ誤解しちゃうよ。傍にいていいんだって、都合のいい解釈掘り出して当てはめちゃうよ」
 裕奈のひねり出すような嗚咽と共に、漏れる言葉はか細くて。ネギにはただ、その背中を優しく包んであげることくらいしかできなかった。
 伝えられる想いなど限られていて。それでも一つだけは分かって欲しくて。
 贖罪を背負うのは一人、自分だけでいいのだ。そう、ネギは彼女に言葉をかけた。これ以上になく優しい声で。
「いいんですよ」
 桃色の髪の少女が脳裏に浮かぶ。否、それはとうに浮かんでいたことだ。泣き顔も、駆け抜けていった。だがネギは、抵抗の反応など示さなかった。示せるはずがない。彼が示すことの出来る反応といえば、これ以上彼女が傷つかぬよう優しい膜で包んであげることだ。
「傍にいて、いいんです。いてほしいんです」
 自分が出来るとはおもわない。
 だがせめて。せめてこれ以上彼女が涙を流さないですむように。――だって本当は気付いていた。早朝のホームルームで、彼女が眼を赤くしていたこと。休憩時間、顔も見せなかったのは、泣いていた所為だろうということ。
「もう裕奈さんを悲しませたくありません」
 だってこんなにもまだ瞳が赤い。声が震えている。
「まき絵さんには、ちゃんと言いますから」
「……っ……ネギ、くん……」
 睫毛の隙間から零れ落ちた想いの残滓。少しでも彼女が笑顔でいられるように。その想いをネギは舌ですくい上げた。眼球を舌で撫でる。それから額に口付けをした。
「キスをしてもいいですか?」
 睫毛をそっともちあげた彼女は、涙を頬に溢しながら、小さくだけ笑ってくれた。
「いいよ……。私はずっと前から、ネギ君だけしか、見てないよ」
(ああ、本当にこの人は――)
 自分がうだうだと悩んでいる間も、まっすぐに自分を見てくれていたのではないだろうか。
 まき絵と笑っている時も、明日菜や木乃香、刹那と魔法関係のことを話しているときも。ずっと自分を抑えていたのではないのか。
 恋人の親友であるために。ネギに負担をかけないように。
 本当は問い詰めたいこともあったはずなのだ。それでも裕奈は、さんざん傷つけただであろうはずの自分を見詰めている。
 ネギに言葉はない。想いはすでに決壊している。脆い堤防などその水圧の前では無力に等しい。想いの水に浸ることの出来るネギは、きっと幸せで。そう思える事が幸せで。
(動くのを怖がっていたのは僕だった。それならこれ以上不安にさせるのは、だめだ)
 想いの量では勝てないかもしれない。沢山傷つけた。泣かせてしまった。だからこれから埋めよう。
 言葉のまま、ネギは唇に触れた。味はない。交わりもない。ただの皮膚接触が、こんなにも愛しいことだとネギは初めて知った。
 裕奈だから。
 脆く壊れてしまいそうな、それでも笑ってくれる裕奈だから。ネギはこれ以上になく優しく抱きしめる事が出来る。
「ネギ君……」
 ――そして今、彼女は隣にいて。
 はにかみながらも、ネギの頼りない肩に頭を乗せたのは、数刻前。
 交わりはなかった。だけれども、繋がる何かを感じた。……それは彼女。ネギは違った。
 白む空の下、静かな呼吸と風の音が耳元を掠め、ネギに朝を告げる。
 彼女は眠りの中。世界樹の幹にもたれかかる少女は、世界で一番愛しい人に凭れ掛かり眠っている。
 どんな夢を見ているのだろう。ネギが思わず笑いを溢してしまうほど、彼女は寝言を口にする。
 友人との語らいの中に居るのだろう。自分の知る名も聞こえた。そして恋人の名も、また。
 こぼれ落ちる涙は、頬を常に浸す。拭っても拭っても消えない傷痕のように、頬を這う。
 泣いていたのはネギ。
 嗚咽を漏らさないよう、奥歯を噛み締める。きつくきつく、顎が痛くなるくらいに噛み締める。そうしなければ、とても堪えられなかったから。
 聞こえれば起こしてしまう。あの優しい彼女にまた哀しい顔をさせてしまう。
 ネギは、せりあがってくるものを嚥下するしかなかった。血のような赤い涙が、傷口から染み出て止まらない。
 だから、まき絵が二人に近づいていても、ネギに察することは出来なかった。
 ネギの頭上には影が落ちていた。
「……昨日放課後会えなかったから、朝錬のついでにってに見に来ちゃった」
 ネギは裕奈と交わる事が出来なかった。
 何故ならばネギには、まき絵という恋人がいたのだ。ネギにとっては形だけのものであっても、まき絵にとってどれだけのものであるかは、想像に易い。
 それにネギとて全く心なしに付き合っていたわけではない。仮にも身体を合わせたのだ。
 全身を、そして最も弱い部分を擦り合わせるのだ。不快な相手と出来るはずがない。だからそれは――。
「今日は修行はお休み?」
 まき絵は持ち前の明るさで、この場に不釣合いな程にネギに笑いかける。
「なら散歩、しよっか」
 ――だからそれは、ネギにとって、まき絵が既に大切な人になっていたということだった。

「朝焼けが綺麗だね」
 彼女の言葉は、宙に留まることなく流れていく。
 朝の心地良い空気の中、ネギとまき絵は世界樹広場を少し出たあたりを歩いていた。まだ朝が早いために部活をしている人はいない。
 ネギはふと隣を見る。彼女はそれに気付き、笑って見せる。
 そこでようやくネギは悟る。
 彼女は涙を流さないだけできっと泣いているのだ。胸を痛め、それでもネギの為と堪(こら)えて。泣いているのだ。
 どうして彼女が涙を流さなければならないのだろう。何故自分ではないのだろう。
 彼女の胸の痛みは、自分がいなければあるはずのないものだった。そう、自分が弱いからと優しい彼女に頼った所為で、彼女は今泣いている――。
 ネギは彼女に触れることもできず、声を掛けることも出来ない。他人のような距離をとって歩く。
 しばし進んだところで彼女は立ち止まり、そのまま枯れた芝生に腰を下ろす。ネギもそれに倣(なら)う。
「寒くありませんか」
 彼女はにっこりと頷く。風に流された前髪を整えながら、まき絵はネギに向かった。
「裕奈と想いが通じて、よかった」
 何を。
「あっ、もちろん皮肉なんかじゃないよ。好きな人と親友が幸せになって、嬉しくないはずないでしょ?」
 何をしてあげられるのだろう。
 目の前で、ネギを傷つけないようにと自身の心を切りつけながらも笑う少女に、何が出来るというのだろう。
「……幸せになってよ、ネギくん」
 言うまき絵の手をとったのは、ネギ。流れる風が仰ぎを止めた。
 目を丸くするまき絵の顔を見ながら、ネギは呟く。
「どうしてそんな風に笑えるんですか」
「ネギくん?」
「そんな顔……ずるいですよ」
 無茶苦茶な理屈を言っている自覚はあった。だが感情の放流は止まらなかった。
 一度は胸に抱いた少女に、どうして自分はこのような表情をさせてしまっているのだろう。
「僕は……まき絵さんを裏切れない」
「……ネギくん」
 それは我が侭の吐露。単なる子供の喚きでしかない言葉、だが今のネギにはそれが精一杯だった。
 嘆息をつくまき絵に突き刺す視線は幼稚なものだ。少なくともネギはそう頭で理解できている。
 だが止まらない。止めてはいけないのだと思った。
「あ、あはは。何、言ってるの。今言ってること分かってる?」
 まき絵は、だから返す。
「ネギくんにはもう裕奈がいるんだよ。裏切れないって、それじゃあ裕奈はどうなるの?……私なんかどうでもいいんだよ」
「っ……!」
「二人の時間邪魔してごめん。それだけだよ。……私とのことは、もう忘れた方がいいよ。私もそうするようにするし」
 まき絵の言葉は止まらない。まるで沈黙を恐れるように、ネギの言葉を恐れるように口が動く。
 哀しく。言葉だけが独り歩きしていた。
 だが代わりに表情筋はその機能を停止していた。笑顔を塗り固めたようなまき絵の表情に、ネギは固唾をのんだ。あるいはそれは固唾ではなく、胃液だったのかもしれない。
 どうしてだろう。
「あの時は、裕奈はネギくんのこと好きじゃないみたいでさ。それなら私がって思っただけ。ネギくんのこと一人にしたくなかったんだ。でももう裕奈がネギくんのこと好きなのは分かったから、私はもういい」
 どうして。
 裕奈をネギはあれほど愛しいと。抱き締めたいと。そう思っていたのに。
 どうしてこれほどまでまき絵を抱き締めたいと思う。
「どうでもいいなんて、そんなこと。絶対にあるはずない」
 ネギの口は、だから勝手に動いていた。
「……ネギくん。人はね、二人は救えないよ」
「判っています。僕は裕奈さんが好きです。だから、まき絵さんを傷つけてしまうってことも。判って……でも、今のまき絵さんは、離せない。離せないんです。このままだとあなたが壊れてしまいそうで」
 まき絵はネギの顔を見詰める。
「壊れないよ」
 塗り固められた笑顔だった。そんなまき絵に、場違いにもネギは苦笑した。
「説得力、ないですよ……」
 どうやって溶かせばいいのだろう。自分が押し込めてしまったこの優しい人の笑顔を、どうすれば取り戻せるのだろう。
 時間?温かな言葉?友達の慰め?違う。
 ネギだ。ネギしかいない。
 ある種の確信めいたものをネギは感じ、彼女の頭に手を置いた。真っ直ぐな彼女の髪を撫でる。
「違う」
 彼女は目蓋をきつく閉じる。それでもネギはやめない。
 彼女が荒げるのは言葉だけだった。それでは抗っているとはいえない、行為をやめる手助けにはならない。
「違うよっ。それに壊すとしたら、それはネギくんがだよ。これからのネギくんが、私を壊すんだよ。優しくされればされるほど、きっと私は壊れていく」
 ネギの年相応の小さな、だがしっかりとした骨組みをした指がリボンを解き、彼女の髪を撫でていく。
「こうして優しく撫でられて、それだけで壊れそうになるよ」
 彼女が抵抗しないことをいいことに撫でていることを、ネギは理解していた。
「それに、何より、……ゆーなが悲しむ」
 だから――その名前が出たときに、手が止まったのはある意味当然といえよう。
 裕奈。今世界樹の下で眠りの霧に包まれているであろう、少女の名前を呼ばれて、ネギは硬直した。
 ネギの中で、彼女の名前が急に現実味を帯びていく。頭を撫でていた手が止まる。その手にまき絵が触れて、膝元に下ろす。
「ありがとう。ゆーなのこと大切に想ってくれてるんだね」
「まき絵さん……」
「大丈夫だよ。ゆーなは格好良くて、可愛くて、そんでもってすごく優しいからさっ。もー、ネギくんなんて勿体無いくらいにね!」
 そう言って、えへへ、と微笑む彼女の顔は、先ほどとは少し違って見えた。
 何かを振り切ったような表情だ。それは吹っ切ったのとはき違う。絡みつく糸を振り払っているようなそんな笑顔に、どうしても下ろされた手を動かす事ができなかった。
 そんな微妙な機微を察したのか彼女は眉をしかめる。これが初めて見せたまき絵の苦い表情ではないだろうか。思いながらも、触れたままだった彼女の手から自らのを離すしかなかった。
 笑顔の中に潜りこんだ哀しみ。
 傷一つ残さずにそれを取り除くことはかなわないことはネギにも分かった。そのまま奥底にしまいこんでおくか、何処かに穴をあけて抜くか。どちらにせよ、もう自分にはその哀しみに触れられないというのは決まってしまった。
「よし。それではそろそろ戻ろっか。学校遅刻しちゃうよー」
「……そう、ですね」
 ネギは立ち上がった。訪れる視界の変化と、差し込む陽光を受ける。
 不意に前を行く一人の凛とした少女が、振り返った。
「あ。一つだけ聞いていいかな」
 逆光が眩しくて顔がよく見えないけれど、何故だか笑っているように見える。
「なんでしょう」
「私のこと、ちょっとでも好きになってくれてた?」
「いいえ」
「がぁんっ。それはショックだよー」
 項垂れたまき絵を見ながら、ネギは口元を歪めた。それは次第に笑みの形に。
 それが出来る唯一の表情だと、わざとおどけて見せている彼女を見ていると、思った。
「ちょっとではなく。……すごく、です」
 風に切られた青草が空に舞った。
 光を受け、尚更蒼く輝く草の匂いが、気付けば傍に佇んでくれていた。
 嬉しくて。だってそういうことに気付くのは、お互いの笑顔が自然でいられる証で。
「そっか」
 彼女は今度こそ満面の笑顔で迎えてくれた。
 ネギがほどいたリボンを括りなおし、一歩分の歩幅を飛び越える。その先には愛しかった人の姿。
 唇に落とされた柔らかな感触からは、ぽかぽかと暖かい気持ちが流れ込んできた。
「英語の授業、楽しみにしてるね」
「寝ないでくださいよー」
「もちろん。英語だけは寝ないよ」
「他のも起きててください」
「頑張ってみるよ」
「はい、お願いします」
「……」
「……」
「それじゃあ、ネギ先生」
「ええ」
 そうしてネギとまき絵は別れた。ネギは裕奈のいる木の元に、まき絵はランニングのために外へ。そうやって別々の方向に歩き出すと、お互いの姿は当然見えなかった。
 でも涙はなかった。それは全部まき絵が関係を止めてくれたからだろう。
 もしネギが流され、あのまままき絵を引きとめていたのなら――。

 小さな歩幅で向かった先に裕奈が迎えてくれる。
「おかえり」と彼女は言った。何も言及せずにネギの頭をそっと撫でた。
 二人の座る丘の片隅に、ひっそりと佇むアネモネが風に揺れて流れた。




END

×× あとがき ××
まき絵が全然うごいてくれない・・・・。自分の手を離れてネギくんと喋ってるようでしたよ。
私のなかのまき絵が明るすぎて、負の感情を持たせる事が難しいのです。
最初はもっとまき絵は救えない予定でした。でもよかったかな。裕奈が報われて。
さて、これは「一日目」の最初辺りは某巨大掲示板に投稿したものですね。
裕奈可愛いですよね。というか、ネギとラブってほしい。
でもまき絵が初めに、ネギのこと好きって言って、さらに公然とアプローチしてる。
親友のそんな姿をみると、ネギが好きだなんて態度とれないだろうし、言えないだろうと。というかそうであってほしいな。
えとまあ、この話はそんな願望というか、はい。ごめんなさい。これでも試行錯誤しつつかいてみたのですが、いかがでしたか。
修羅場にありがちなヘタレにならないように。……したんですがね。うーん。ふらふら〜というよりは、一人相撲のような。
結局ネギはまき絵に助けられています。
運動部四人組は、誰か一人を書こうとしても無理なことに気付きました。自分の中で四人のつながりって結構深いんですよ。
多かれ少なかれ、会話をさせるさせないに関らず、誰か一人を出す時は他の三人も参入させてしまいます。
それでは、本命でなくとも、『ネギ×裕奈』スキーさんが増える事を願いつつ。
補足として。
アネモネ(赤)の花言葉は君を愛す・わびしい思い・恋の苦しみ・辛抱。
2007.06.03

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