僕達は抱き合う事が全てだった。
そこに愛がなくても。




アンニュイな日々は幸福の証 ― 前編 ―



――お父さん
意識の向こう側で叫んでいるような声。
――お父さん
彼女は再び呟いた。
その絶叫にも似た呟きは、音量こそ小さいがそこに含まれている想いは果たしてどれだけなのか。
――おとう、さん
僕はそれに一生勝てないような。そんな印象を抱く。
彼女は隣で、僕にもたれかかって座っているというのに。
夢の中で、彼女は呟く。
耳を塞ぐ手を堪え、彼女の肩に回す。細身ながらも、肉感のある肩。……だった。無駄な脂肪は一切ない、彼女の大好きなバスケをする時に大いに役立つ筋肉は、今は弛緩していて、柔らかい。
だが以前のように、ふざけてそのまま下へと手を滑らせよう、などという考えは起らなかった。脇に手を差し込んで、肩よりも更に柔らかな部位に触れるのは簡単だ。だけれどもそれをする気にならないのは、彼女の気持ちが今此処にないから。
彼女は同じ言葉を、呪いを吐くように、あるいはいつくしむように呟く。
僕は必要以上に水分の溜まった瞳の表面を強く擦る。
誰に知られることもない、ささやかな反抗だった。


彼女の父の葬儀に立ち会ったのは記憶に新しい。俯いたまま、一向に乾かない彼女の涙を拭うこともできなかった。
ただ傍にいるだけ。
言葉もかけられない。抱き締めてやれない。
僕に出来るのは、身体を合わせることだけ。
今の僕たちは恋人同士と呼ぶには程遠かった。
愛の言葉を囁くのは、自分自身白けた。そして彼女が何よりも哀しそうな顔をした。
「ネギ君も、いつかいなくなるのかな」
絨毯の敷かれた床に、ぺたりと座り込む彼女の手を握り締める。
おそらくこの行為も今の彼女には傷をつけるだけなのかもしれない。
それでも僕は、彼女に触れないわけにはいかなかった。
それは自己満足。触れて、彼女が今ここにいるのだという事を、自分が安心したいのだ。
今の彼女は、透けて消えていってしまってもなんら違和感を感じない。
「えっ……」
そん心情を見抜いたのか、触れて間もなく彼女は顔を上げた。
僕は硬直する。
「私に触れないで。そんなふうに、優しく触れないで」
呆けていた彼女が手を振り払ったのだから。
決して激昂しているわけではないのに、むしろ沈静であるというのに、自身の体は竦む。
「ゆーな……さん」
「いつか居なくなってしまうんでしょ。好きだって言ってくれるネギ君だって、いなくなっちゃうんだ。私の好きな人が皆いなくなっちゃうみたいに」
彼女の母も死んでいる。そう以前に聞いたことがあった。彼女と同じ黒髪の、笑顔の素敵な女性の写真を一度見せてもらったときの事を思い出す。
彼女は笑顔だった。途方もなく深い茶の瞳を細めて笑っていた。
行き場のない思いは、その頃からただ漏れていたのだ。
「ネギ君も魔法使いだもんね。お父さんと同じようにさ。あぁ、ネギ君はもっと凄いマギステル・マギだっけ。そしたら多くの戦場に赴いて……そして、もっと危ない目にあったりするんだよね」
どうでもいいように。だけどはっきりとした口調で。何処も見ないふうに呟く裕奈さん。
その彼女を無言で見ているだけの自分。
「私そんなの嫌だよ」
彼女はベッドに凭れかかって、体育座りをする。そのまま膝を抱えて、額をつけて俯いた。表情は前髪に隠されて見る事ができない。
「だって自分の気持ちはここに残っているんだよ。煙のようにさ、消えてしまわないんだ。そんなのって、ただ辛いだけ。苦しいだけだよ。……だったらこんな気持ちいらない」
彼女を見ていると、自分の方が泣きそうだった。
手を伸ばせない事がこれほど辛いことだというのを知らなかった。自分が深淵にどんどん沈んでいくのが分かる。
這い上がれない場所まで、いっそ落ちれば楽になれるかもしれない。でもそれでは、彼女を引き上げる事が出来ない。一緒になって落ちるだけになる。
「もう放っておいていいよ。ネギ君ならこんな、人の好意を受け入れない卑屈な私じゃなくても、他に沢山いるじゃん。その人の所に行って、忘れて。ネギ君の優しさは、私には痛いだけだよ」
それが、一番二人にとって幸せな道かもしれない。
だけど僕は頷かなかった。
何よりも大事な人がいる。自分という空疎な人間が、僕には何よりも大事。
だからその自分の心の大部分は彼女に侵されてしまっている今、彼女を失えばどうなるか鮮明に思い描けた。これが茫漠たる平原の彼方の向こうにあればよかったのにと瞼を閉じる。
マギステル・マギになったばかりの頃――ボロボロの自分をいっそ記憶から削ぎ落とす事が出来ならば。こんな恐れは抱かずにすむ。彼女の元を去ったかもしれない。心配し見守りはしただろうが干渉はしないはずだ。
だが記憶は消えはしない。いかに魔法で操作しようとも、どこかで食い違いが起こる。
目の前の少女。自分が強靭な精神を持ち合わせていたら、出逢わなかったはずの少女。大切な人。
瞼は落としたまま、想いを吐き出した。
「それでも。僕は、裕奈さんの傍にいたいです」
「だったら優しくしないで。物みたいに扱ってよ。優しく抱き締めたりしないで、私のこと壊して」
「……それは」
「別に、殺してとか殴ってとか言ってるわけじゃない。ただ思うままに犯してくれればいいんだよ。心も、身体も。ネギ君のモノにして。自我なんて消してよ……。そうしたら私は何も考えずにいられるから。……そうでないなら、私はネギ君の傍にいられない」
それしかないのだろうか。
これは、きっと普通の人間や、そして僕が思い描く幸せには程遠い道なのだ。
それでも。それでも僕は頷くしか選択肢がない。
「分かりました」
彼女をもう見詰められない。
俯くしか出来ない。自分の中から何かが零れ落ちる。それは涙なのか、正常な心なのか分からなかった。
「裕奈さんを犯します。僕にもう逆らえないように」
だって今の彼女の手を掴むには、これしかないのだ。
彼女の心に触れることは出来なくても、傍に居ることはできる。お互いに何も出来ない、ただいるだけの存在でも、いないよりはきっといい――そう信じるしかないのだ。
震える声を必死で抑えて、彼女を抱き締める。優しくではない、力の限りだ。
「ありがとう」
僕は彼女を壊す気はなかった。ただもう優しくはしなかった。
――好きです。大好きです。
幾度呟いても、僕の心はきっと彼女には届かない。
いや、届かない方がいいのだろう、彼女を見ているとそう思う。

夜が明ける。日も昇りきらぬ中、僕は目を覚ます。
そこに鳥のさえずりはなく、灰色の日常だけが広がっていた。人が死んだところで、心が失われてしまったところで、世界は変わりのないのだということをありありと僕に告げているようだ。
夢。
あれから一月ひとつきが経ったのに見る、夢。僕の罪。そろそろ慣れを感じてもいいだろうに。
僅かながら身体に残る疲労を感じる。自身、生温い鍛え方はしていない。だからもちろん肉体的なものではない。日々重なる精神的疲労である。起き上がる気も失せさせてくれた。
首を回転させると、今は抱き締める事を許されていない、綺麗な背中が見えた。眠る彼女の両手首には、痕が付いている。刻印なんて、可愛らしいものではない。
それをつけた直接的原因となる首輪と手錠を目にする。ベッドの下に落としたままの、散らばる服。普段は上げない声。記憶。
慣れたはずなのに。慣れない。
彼女を従属させることが、僕にはできない。出来なければ、彼女を失う。彼女を縛る。痛む。
――もう、考えるのは良いはずだろう?
それ以上見る事を恐れ、拾い上げてどこかにしまうことにする。億劫だが起き上がり、手に取る。昨晩震える手つきで彼女の手首に巻きつけた鉄の感触は、冷たく皮膚を突き放してきた。
安物だ、どうせ二度使うつもりはない。遠くに放り投げる。ガシャリと音がするが、彼女は目を覚まさない――。それもそのはず、時計の短針は“4”を差している。
僕は身体を起こしてベッドを抜け出た。服を着る。それから杖をまたがり修行場へ向う。
マギステル・マギになった今でも、僕は古老師と修行をしている。もう教え、教えられる関係ではなくなったけれど、その心地良い打ち合いに僕は心を癒され、また古老師も僕と打ち合うことで自身を高められる喜びを感じているようだった。云わば息抜き。
世界樹の広場で、古老師との修行。それは日常の中に埋もれて今は掘り出すのは難しい。僕が沈んでいて、だからこそ日常は優しい。
いや、もうどうでもいいのだ、そんなことは。考えることさえ不必要だった。
「どうしたアルか?」
修行が終わった後、短く生え揃った草の上に寝転んでいる僕に古老師は、ぼんやりと呟いた。
古老師は空を仰ぎ、胸を上下させている。
元気がないと言われた。否定すると、古老師はそれ以上追及してこなかった。親密な笑顔で僕の頭を撫でてそのまま瞳を閉じる。感じるべきではない安らぎを感じてしまう。
僕の中に、束の間の、だが確かな安穏が訪れている。
僕は教師を続けてはいない。
だから今交流があるのは、古老師、仕事で会う龍宮隊長、木乃香さんと護衛の刹那さんくらいのものだ。
エヴァンジェリンさんとは呪いを解いたきり会っていない。父を探すといっていた。僕は既に挫折していたから、見つかるといいですね、なんて言葉は、彼女にとって戯言か負け犬宣言にしか聞こえなかっただろう。
明日菜さんは……。
かぶりを振る。また思考の渦に飲み込まれてしまっていた。そう。裕奈さんと出逢ったのは、今のようにくだらない事を考えている時だったのだ。彼女は、担任をしていた頃からの仲良しだったまき絵さんや亜子さん、アキラさんと一緒にいた。
思い出しては、自嘲の笑みが浮かび上がる。消せない微笑。色彩を理解できない人間が、モノクロの世界に色を塗るような困難さがそこにはある。
その時の彼女はまだ笑顔で、疲れきった僕の目に眩しく映った。
立派な魔法使いマギステル・マギ』の称号を得て間もない僕は、その負荷に耐え切れずアスファルトに腰をつけていた。力がまるで入らなかった。
見てしまった汚い部分。さも当然のように明かされる、正義という名の刃。弱者を優しく丁寧に、愛でるよう斬りつける先の魔法使い達。
不意に催した嘔吐に、慌てて口を掌で塞ぐ。息が切れる。項垂れた頭は上がらない。辛うじて掴んでいる杖も手放してしまいそうで。――そんな、どうしようもない時だった。
頭上からの声に、白濁しかけた意識を取り戻したのは。
「あの、大丈夫ですか」
久し振りに耳にした、他人を労わるような声色。長い黒髪を後に縛った長身の少女は、中腰で僕の様子を窺う。同じく淡い色の髪と瞳の色がまず目に付いた少女が、なにやら慌てている。
「気分悪いなら、救急車呼ぼうか?」
それから明るい声の少女が、頭を上げた僕の顔を覗きこむ。短い黒髪を揺らす。綺麗な造形の――もしかしたら可愛い、と形容した方が正確だったのかもしれないが、僕にはそう見えた――少女だった。
少女はしばし無言で、顔を見詰めている。なんだろうと思っているところに、横から声が聞こえた。鮮やかな桃色の髪。
どこかしらこの四人組には懐かしさを覚えた。大切な時間だったあの頃、僕は彼女達を大切に思っていた。そのはずなのだ。こんなにも彼女達を見ていて胸が詰まる。
だが意識をその時間に飛ばそうとしてみても、思考は混濁していて急にはクリアにならなかった。ぼんやりと、四人の少女を見返すだけ。
永遠かと思われた後、その沈黙は破られる。車のエンジン音や人の話し声を突き抜けて、晴れない霧を吹き飛ばすかのように、膝を折り目線を向けていた黒髪の少女は呟く。
「ネギ君……?」
「……お久し振りです、裕奈さん」
口元に錆びた笑みを浮かべる。偶然の邂逅だった。
僕は裕奈さんに助けられ、また僕も彼女を支えた。理想には及ばなかったかもしれない。だが僕と裕奈さんは、小さな歩幅で、歩いていけていたのである。
だから短命の花が美しいように、その時間は遠くに沈んでしまった今ですら自身に光を届けてくれる。
そう、それを踏まえてでも言明しよう。
僕たちは出逢わない方が幸せだったのだ。
だって今、こんなにも苦しい。絶え間のない疼痛が全身を襲う。あの絶望していた頃以上に身動きがとれない。大切なものができただけ、失いたくないものも増える。何よりその大切なものを自分が傷つけているという意識。
傍目には恋人同士のように見られるだろう。だが実際には、恋人でも友人でもない。溶けそうなほどのアイラブユーも伝えられない間柄。自分を引き上げてくれた、愛しい彼女に伝える言葉を消失させられた。
誰にでもない。明石教授を恨むのはきっとお門違いというものだ。
瞼を突き刺す陽の力が強まってきた。目を閉じていても光が眩しい。
僕は草の上で寝返りを打った。陽の匂いが穏かに鼻腔を撫でる。隣には古老師。蒲公英色の髪の毛がさらりとこぼれる。
胸をくすぐるような感覚を感じながら、彼女を見詰める。
「ねえ、くーふぇさん」
長い睫毛を寝かせるように伏せていた古老師が、反応した。常盤色の瞳がこちらを向く。
己の口をついた言葉に、自分で戸惑う。自立している。自分とは介さない何かが。
「貴方を抱き締めたい。僕の中に燻るアイラブユーで」
僕の中に燻る、裕奈さんへの想いの断片を――。
名前で呼んだ所為か、古老師のポーカーフェイスに若干の動揺が見られた。笑顔しか見せなかった古老師。それが、笑顔以外の表情を魅せてくれた。それだけでも凄い収穫のように感じる。
「冗談とはいえ、そういうことは言うものではないヨ」
「冗談じゃないです」
「なお悪い、バカ坊主。お前にはゆーながいるアルよ」
木漏れ日に混じる、少し色付いた溜息。年齢より幼く見えるとはいえ、もうじき二十歳になる。
古老師も、明石教授の死を知っている。
「――辛くなったカ?」
眉を下げて笑う少女は、再び僕の頭を撫でてくれた。瞼をゆっくりと落とす。
「……いえ」
持て余すような長すぎる時間が、勝手に流れていく。無意味で心地良い時間だ。
それに寄りかかることはしない。出来ないのだ。今だって強引に古老師を組み敷くことなどわけなかった。それでもそうしなかったのは――。
「僕の決めた道ですから。それに僕はもう逃げられません」
――今は見ることの出来ない裕奈さんの笑顔が、自らの脳裏に刷り込まれているから。
癒されなくても、縋っていられる。僕でなくてもいいとはいえ、必要としてくれる。そのうちは。
「ネギ坊主」
そう言って、古老師は溜息と共に、僕を抱き締めてくれた。
縛り付けられる心は、苦しいようでいて心地良く。
締め付けられる体は、痛いようで優しい。
木乃伊ミイラ
「え?」
「木乃伊取りが木乃伊ネ。まったく、ワタシ恨まれても仕方ないアルよ」
背に回された古老師の腕が、命綱のように感じてしまうのは何故だろう。
胸に顔を埋めて、しばし時が流れる。彼女といると、時間が勝手に流れていく。
長い無意味な時間をやり過ごすのは、掌で風を転がすよりも簡単で、魔法を覚えるよりも困難だ。
彼女の胸の中にいると、余計な事を考えずに済む。裕奈さんは、心配だ。心休まる時がない。だから離れられない。こうしている今も、安らいでいるようで落ち着かない。
ただ、呆然と空を見上げているよりはマシなだけだ。
「すみません」
突然吹いた風が二人の間を通り抜け、終わりを迎えた。
陽が昇る。
無尽蔵で濁り水のような一日が繰り返される。
――今はまだ、いい。裕奈さんの笑顔が、僕の記憶に鮮明だから。
だけどその笑顔が消えてしまったとき、僕はどうするのだろう。





×× NEXT ××

+ なかがき +
裕奈の父は魔法使いの教授ということ前提で。
それにしてもどういうことだろう、いつの間にか裕奈より出ている古。
裕奈はファザコンというよりは、ただお父さんが大好きってかんじで。純粋な気持ちなのではないかと。
もし裕奈がネギのこと本気ですきになったら、本命まき絵、ナギ=ネギと気付いた亜子、ショタのアキラと修羅場です。
本編では、まき絵に対してどうでもよさそうなネギですが、自分の中では大切な人の一人だとおもってます。
裕奈はどちらかというと、眩しい目でみてる。
それがこの小説の『いつだったか。麻帆良学園で教師をしていた頃、僕は彼女を憧憬の眼差しで見ていた。』という文。
恋愛というよりは憧れかな。アスナとは違う明るさを、羨ましく思っていたのでは。
それでは続きをどうぞ。