NUMBER .001
世界から一人の少女が消えたことに、一体どれくらいのひとが気づいただろう?
鈴の音は、今でもやはり、僕を振動させる。
掌には焼け焦げた鈴があった。
生き返らせてほしい、そう懇願した僕をまるでそこらに転がる微生物でも見るような目つきでにらむエヴァンジェリンさんは、今思えば正しかったのだろうと思う。だけれどもその時の僕にそんな余裕はあるはずもなかった。
足元も覚束ない。茫然自失のまま、学園敷地内の河原で、日が落ちるまで時間を潰す。カモくん――アルベール・カモミールは、早く帰ろうと促す。寒いのか凍えていた。
僕は深淵の中にいるようだった。このまま身が溶けていく感覚に襲われる。心をよりどころにしていた彼女が居なくなった今、それでいいはずなのに、何故か身震いを覚えて立ち上がる。
こんな命、あのときエヴァンジェリンさんにかけられた呪いを解くために使われた方が、本当は良かったのだろう。
ここにいれば憂鬱になるだけだ。カモくんを肩に乗せ、杖も使わずゆっくりと寮に向かう。彼女のいない、部屋へ。
重たいドアをあけると、そこにはなにかを持っている木乃香さんがいた。手紙だろうか。疑問に思っていると、カモくんは肩からおり、何故か部屋を出て行く。追いかける気にはならなかった。
正直彼女のことをほとんど心配をしていなかった。彼女にはそのへんの大人や保護者などよりもよほど心の支えになっているであろう、桜咲刹那さんが居たからだった。
だがこれはどういうことだろう。雰囲気がおかしい。気の所為だと、初めは思った。だが、部屋に足を踏み込むと、その印象はより一層深まったのだ。
明るい色の制服が黒く淀んでさえ見える。その人物は、肩を震わせて、ただ茫然としているように思える。河原で膝を抱えていた、つい先刻の自分のように。
僕は彼女の名前を呼んだ。答えてくれるかは分からなかったが、声を掛けずにいられなかった。
「木乃香さん」
僕の声に顔を上げてくれた。綺麗な顔と、真っすぐに切りそろえられた長い黒髪が、揺れる。
「……ネギくん」
抑揚のまったくない声で名前を呼ぶ。たぶん僕の。だけどきっとその心に今僕はいないだろう。琥珀の瞳に移っているのは、暗闇のみだった。
「せっちゃんが……せっちゃんがいなくなってもおた」
唇だけが動いている。僕は彼女の傍に寄った。
「うちのせいや。うちが悪かったんや」
それは違う、と僕は思った。瞳に視線をさして、こちらをむかせる。そう、彼女の所為ではない。
「僕の所為です」
僕が自分のことでいっぱいなだけだ。明日菜さんがいなくなった悲しみに、ただ無防備に押し潰され、周りが見えなくなっていた。だから目の前で今、彼女が泣いている。そうでも思わないと、とてもやってはいられない。
「明日菜、そんでせっちゃんまで。みんなうちの前からおらんようになってしもた」
悲しみの侵食を許している彼女は、僕と同じく、いやそれよりもずっと長く一緒に住んでいた、かの大切な人を亡くした、たったひとりの共有者。その彼女の目尻に指でそってなぞると、涙が払われる。
「ネギくん……」
ポケットのなかの、焦げた鈴が鈍い音を立てた気がした。
「この前のデート、楽しかったですね」
「この前……?」
「明日菜さんの時計買ったときのことです。はは、あの時はみんなにつけられてましたけどね」
僕は意地悪く喪中の人物を持ち出した。自分の心も同時に傷が入ったが、あえてそうした。
「デートやったっけ……?」
「はい」
少しの笑顔を見せた。ようやくひねり出したといったところだが、おそらく彼女にその内をみる余裕はないだろう。僕も、彼女をだませればそれでよかった。思惑どおり、彼女の頬は若干緩んだように見えた。ただの気のせいとも言えるが、それでも、今の自分には十分先へ進むために踏み切る力となる。
「木乃香さんがそう思ってなくても、僕はデートだって思ってますよ」
心の中で誰を思っていてもいい。僕にできること、すべきことは、気分を紛らわせることだ。
「ふふ。せや、ね」
これ以上押しつぶされてしまわないように。僕も、彼女も。必死で両手足を地面にはりつけて、踏みとどまる。
力を抜いてしまえば、確かに楽なのだろう。だがそれをすると、もう戻れなくなる。
「僕はあなたが……、あなたの笑っている顔が好きです。だからそんなに泣かないでください。抱き締めちゃいますよ?」
小さく微笑んでみたが、あまりに無理矢理ですぐにやめた。必要もなくなっていた。
「いっぱい抱き締めて」
涙目の彼女が見上げてくる。
「ぎゅうぅってして、絶対離さんとって」
「木乃香さん」
「ええんよ。うち、ネギ君のこと好きやもん」
背中に手を回すと、今までは気付かなかったが、震えていたことが分かった。お互いに思っている人はおそらく違う。
「僕も、好きですよ木乃香さん」
それでも止める気にはなれなかった。それに拒まれもしなかった。お互いがお互いを、その時必要としていた。それで十分抱き合う理由になる。
「僕がいます。僕はいなくなりません、絶対に」
――だから木乃香さんも、僕の前から消えないで。
それは心なかの呟きにとどめて、体の間隔を少し空けると、見開く目の縁を舌でなぞった。先ほど拭ったばかりなのに、もう大きな道筋がひかれていた。塩辛かったけれど、それすらもちょうどいい。
もう僕も彼女もお互いから目が放せなくなっていた。揺れる視界のなかに、僕が映っている。肝心なときにちっとも守れない、ネギ・スプリングフィールドが。
彼女はただ僕の名前を糸が切れたみたいに、それでも紡いでいた。唇で息の漏れる箇所をふさぐことで、それは途切れる。海の味とはとても思えない。これは、戦闘がおわったあと口腔に広がる、血の味だ。
その時足枷を自ら付けたことを、きっとわかっていたのだろう。
「安心、……させてえな」
それでも自分ははまだ、大丈夫。
それから毎日、僕らはお互いを求めるようになった。彼女に向けた手紙の言葉どおり、刹那さんが学校を辞めていたのだ。それを知った木乃香さんは、ただ一人で泣いていた。明日菜さんの帰らない部屋で、僕すら頼らずに。修業をさぼってしまった僕は川辺で時間を潰していたから、気付いたのは水面がもう暗く沈んでいたときだった。
「ふぁっ、ネギく……、んふぅっ」
部屋に戻って僕が見たのは、その昨日のような木乃香さん。
それからは授業が終わり、僕の仕事が完了するのを、一人で待っている。あの部屋で。笑顔で僕は、ただいまというけれど、彼女は小さく頷いて、お帰り、とまるで感情がないみたいに言った。
「きっ、今日は、うちが上にっ」
―― 体に何も纏わずに。
「はい、木乃香さん」
「ネギくん、気持ち、っ、ええ……?」
「……はい、木乃香さんの中、すごく熱い」
そして今日も、重たいドアを開けると、彼女が待っていた。僕にはそれが嬉しい。やはり誰もいないのはつらい。だけど彼女にそれをさせている自分は何だろう。
「うちぃっ、も、イきそうや」
こうして紛らわせるしかないのだろう。僕は内側から沸き上がる感情の滝を押さえ込み、その行為に没頭しようとする。始まってしまえば、ほかは何も考えずにすむ。何も。
「ネギくんっ、……ネギくぅ、ん。うちの中……ちょぉだい」
腰を奥まで沈め、彼女のなかに最後の滴を出し切ると、僕らはそのまま混濁の最中に微睡んでいった。
エヴァンジェリンさんから呼び出しを受けると、隣で静かに胸を上下させている彼女を起こさないように、――服を握っていたのを放す時手間取ってしまったが――極力音を立てず着替えてからゆっくりと部屋をでる。
うっすらと昇る日の色に目を細めながら、風を切って杖に乗った。ここからだと三分以内には着けるだろう。もっとも、制限時間は一分だったのだけれども。
カモくんも恐れる形相を思い浮べ、僕は少しスピードを上げる。
今朝と言っても差し支えない程夜明け近くに、電話が鳴った。木乃香さんが目覚めるかとも思ったけど、どうやら深く眠りに入っているようで、その様子はなく、それでもいそいで携帯を手に取る。エヴァンジェリンさんからだった。
古びた木造の扉を二度たたくと、緑葉に染められた髪が隙間から除く。
「お待ちしていました、ネギ先生」
そのうしろでは、金髪の蒼目の少女が腕を組んで立っている。
あの、焦げた、かのひとの鈴をもって取り乱していた、先日の自分が思い出せ、少し足に力がこもった。決まりが悪い。
「こんな朝から呼び出してすまなかったな」
「いえ」
「ふ、だが用件は分かっているのだろう?」
喉がなるのが自分でも分かった。
「……いえ?」
「ほう。私にそのような誤魔化しが無駄だと知ってか。いい度胸じゃないか」
抑えても溢れる魔力がある。見える。だけれども認めるわけにはいかなかった。
「近衛木乃香とのことだ」
「聞いてもいいでしょうか」
「なんだ」
「なぜそのことを?」
吸血鬼である少女は、少し鼻をならして笑った。馬鹿なことを、とでも言いたげだ。自分でもそう思う。
「私が何も知らないと思ったか」
「マスターはネギ先生が先日ここを訪ねて来た後、心配をされていたのです。それで先生のあとを」
隣にずっといた茶々丸さんが解説をしてくれる。少女は頬を赤らめながら否定するが、絶えず傍にいた茶々丸さんのことだ、きっとそれは正しいのだろう。
「余計なことを言うな茶々丸。少し出ていろ」
「はい、マスター」
ということは全てばれているという事か。これ以上隠すのは怒りをあおるだけで得策ではない。
無音で出ていき、開いたままだった扉が閉められると僕は息をつき、エヴァンジェリンさんに向き直った。喉を通る冷たい息が体を冷やす。
「僕は木乃香さんを抱きました」
「貴様……っ」
鉛程低い声に気をとられた一瞬、腹部に、その鉛の衝撃が走った。抗議の声を出そうとして少女を見上げた。吸血鬼はそこにいなかった。ただの幼子がいる。そしてそれだけ。
「どうしたん、ですか」
目の前の少女の姿が信じられなかった。
「あなたには関係、ないじゃないですか」
本当に目の前にいるのが、未熟者の自分でも知っているあの『闇の福音』を通り名にもつヴァンパイヤだということが信じられない。先日の戦いで、僕の攻撃を受けても小石に躓いた程度も傷を負わなかった少女だ、などとは。とても信じられないのだ。それほど幼く、小さく見えてしまった。もっとも、そう言えばきっと怒るだろうけれども。
「うるさい。お前は何も分からないんだな。あいつ、ナギでもこれほど鈍くはなかったぞ。そう、少なくとも私の気持ちに気付くぐらいはしてくれた」
大きく見開いた深いアクアの目からは、ぼろぼろと音が聞こえそうなくらいの涙が流れ出ていた。
「お前は神楽坂明日菜の事を好きなのではなかったのか?だからあの時できるはずもないのに、生き返らせようとした」
深い森で光を失った彼女が見えた。鈴を鳴らして落下していくのをくい止めるべく拾い上げても、力の抜けた彼女はたまったままの涙をもう隠そうとはしない。
目を閉じた。出来れば答えたくない、と思った。少女の真意が、やはり分からない。
それにしてもこうして目の前で一人の少女が涙を流していても、もう以前ほど動揺する事がなくなってしまったのは、悲しいことなのだろうか。
「何故エヴァンジェリンさんは泣いているんですか。分からないんです僕には」
「質問に質問で返すなっ、……答えろ、ネギ・スプリングフィールド」
僕と同じ身長の少女は、闇に染まったアクアブルーの瞳をきつくつりあげている。その姿に、不謹慎ながらも可憐な思いを抱く。涙を掬ってあげたいのを抑え、僕は口をやむなく開く。出来れば名前は出したくなかった。
「好きに決まってるじゃないですか」
少しだけ逃げてみる。それで救われるものなど何もないけれど。
僕は、木乃香さんにそうしたように笑ってみせた。いや、正確には、笑うことしか出来ない。
「ですが木乃香さんは同室の人を同じくして失い、更にせっかく数年以来に心を通わせることの出来た刹那さんまでいなくなったんです。放っておくことなんて出来ない」
「それはただの同情にすぎんだろう」
「それもたしかに、ありますよ。でもそれだけじゃないんだと思うから。同情だけで僕は女性を抱けません。それは貴方が一番わかっているでしょう」
ナギは不幸な境遇に居たエヴァンジェリンさんを抱かなかったのだから。
「っ」
ダンッ、という音と同時に壁に穴が開いた。空洞から冷えた空気が暖かな室内に入り込んでくる。冷たいはずなのだけれど、どこか生温い感覚が気持ち悪い。
「もういい、……帰れ」
「でも、あの、エヴァンジェリンさんの用件って結局……?」
「帰れといっているだろう」
「エヴァンジェリンさん」
「……終わったんだ。帰れ」
こうなったなら少女は譲らない。僕は仕方なく呪文を唱え、穴を塞いでから小屋を出た。帰り際に聞こえた声が僕を動揺させたが、聞かなかった方がいいと思い、そのまま杖に乗る。
表面上の意味を幾ら推測できたとして、本当の意味を誰が知ることができるだろう。少なくとも、僕には到底無理だった。
風の魔法が僕を連れて行ってくれる。彼女の元へ、迷わず今日も、辿り着く。
――ナギだけでなく、やはりお前も居なくなるのだな。
風に揺れる黄金が、しばらく杖先を掠っては消えていった。
××× NEXT ×××
+ 中書き +
いや、序盤、すみません。
でもあの場面でああいうふうになるっていう構想は、はすごい自然に出てきました。
一期のアニメみてて。アニメなら生き返りますけどね。
エヴァはネギの事が好き。ネギは自分に父を重ねていると思ってるけど、本当はネギ自身を見てる。
ネギはそんなことに気づきもしない。目の前のことに一生懸命です。
・・・ってか何歳だ?このネギ。
このあといよいよせっちゃんでてきますね。
2007.2.15
