NUMBER .002



――お嬢様に何かあったら許しません。
暗がりで目を開けると、ふと以前のことが思い出された。いつのことだろう、それほど昔ではない、ほんの数週間前のことが、やけに遠くに感じた。だけれども現実は確かに隣にあるのだ。
僕から見れば十分、あなたが逃げているだけのように見えますよ、刹那さん。
二段ベッドの上段で、近くにある天井を眺めながら僕はその剣士を思っていると、横から柔らかい声が聞こえた。
「どないしたん」
意識に絡まるような甘ったるい喋り方が、胃に響く。
交えた後、僕達は大抵別々に眠った。一つのベッドに毎回二人寝るには狭すぎるのだ。いつからいたのか、彼女はひょいとのぼって顔を覗かせている。首をかしげる仕草に鼓動が頬が熱くなる。
「苦しそうな顔、しとったで」
「ちょっと考え事をしていたんですよ」
笑うと、彼女は頬を子供みたいに膨らませる。僕は彼女をベッドの隣に導いた。彼女はすんなりと布団をあげて入ってくる。
「もう、また敬語や。ええゆうてるのに」
「いきなりは慣れませんよ。それに生徒と教師ですし」
「むう……こないなことしとって、いまさらやとも思うけどな、まあええわ」
「それにしてるときはちゃんと名前でしょう」
「うう、なんやずるい気いする」
言いながらも、ふふ、と笑うのが聞こえて、僕は安心をする。先ほどまでは甘い中にもちょっとした刺激で悪い意味での化学反応を起こしそうな調子だったから、彼女の言葉の無防備さに安心をした。だがそれも、次の瞬間には開いたままであった穴から抜け出てしまった。
「明日菜のこと?」
朱の髪の下に瞬く紫と碧の宝石が浮かぶ。
「いえ」
たまらず打ち消す。瞬きひとつで、それは消えてしまえる。今回も成功だ。
「ほな、……いや、やっぱええわ」
「そうですか」
「うん、ええ」
気づかれたのかもしれない。
――お嬢様っ!
長刀を片腕に携える剣士を思い浮かべていたことに。
束ねた黒髪を揺らし、いつも見守ってくれていた剣士。僕の生徒だったが、僕よりも強く頼りになっていた。そう、彼女にとっても、自らよりもよほど心強く大切に思っていたことだろう。前は。
目を閉じて、暗闇の中に強い剣士の姿を思い浮かべた。
あの人は強い。それこそ僕など到底及ばないほどに、心身とも強靭なものをもっている。かの大切なお嬢様を守ろうとする力では、いくら成長したところであの人には敵わないだろう。
「ネギ君、今何考えとるん」
可愛らしい。彼女の髪に指を埋める。瞳が揺らぎ、不安げな表情をそこに表している。それすら愛しいと思った。手放したくないと、抱きしめる。抱きしめたところで、結局留めさせることの保障にはならないのだけれど、それで救われる気持ちは沢山あった。そう、抱き合うことで救われたのは彼女だけではない。去っていった愛しい人を忘れられないのは僕も同じ。
「もちろん、木乃香さんのことですよ」
言うと彼女は、暗目でも分かるほど慌てだし頬を染めたが、何気なく口を突いて出た言葉に僕自身が一番驚いていた。
“紳士として”中途半端な優しさは感心しないな。優しくするなら努めてそうすべきだし、そうでないなら突き放すことも必要だ。それが分からないうちは、深くその人に入り込んではいけない――。
言ったのは誰だっただろうか。僕は曖昧な記憶の中の声を思い出して、口元を歪める。彼女を突き放すことなんて、出来ないことだった。
「隣に居るのは木乃香さんだけですから。どうやってずっと僕のところに居てくれるかなって考えていたんです」
自分でも可笑しな事を言ったと思った。僕は自嘲からくる笑みを押さえるのに精一杯だった。
「ここはうちの部屋やえ。むしろうちの方がネギくんおらんようならんかって心配しとるんよ」
その言葉にくすりとわらう。彼女の好きなところは、そういうところなのかもしれない。穏かで、優しげな空気が好きだ。
「僕が言ったのはそういうんではないんですが……。でも、まずそんなことはありません」
「ほんまに?」
「約束してもいいくらいです」
「へへ、うち、嬉しいなぁ」
僕のほうに向き直って僕の瞳の中をのぞくと、彼女の大きな瞳が自然とはいってくる。瞬くたびにこぼれそうなほど大きな瞳は、暗闇の中でも輝いていて、だけどどこか陰があって。それが余計に僕を引きつけた。
「なあ、うちもう、ネギくんおらんとあかんよ。だめになってしまう」
「こんなに可愛い人を放すことなんて出来るわけないです」
おそらく彼女が駄目になったら、護衛の剣士はきっと現れるだろう。なによりも彼女に忠実で彼女の事を思っている護衛だからだ。そしてそれ以上でもそれ以下でもない。それが彼女には、耐えられない。
彼女と彼女の剣士の事を考えれば、その方が良いのかもしれないとも思う。だけどそれをあえてしないのは、ただの利己的な考えが体中を蝕んでしまっているからだ。
僕はそのまま、彼女を片腕にのせて、ひとときの眠りにつく。


突き抜ける風がひんやりとして気持ちが良かった。だがそれも、今となっては体を突き刺す針みたいなもの。
「……刹那さん」
早朝の修行の帰り道、自分の身長よりも長い剣、夕凪を引っ提げている少女に出会った。
有難いことに、エヴァンジェリンさん――マスターと呼ばせてもらっている――は、あれからも僕に修行をつけてくれている。偉大な魔力をもつ木乃香さんには危険が付きまとい、それを守るために僕は力を持っていなければならない。そうでなくても、もともとマギステル・マギを目指しているのだ。偉大な真祖であるマスターに魔法を習うのは必要であった。
そしてそれとは別に、体力増幅のため杖で移動するのは控えることにしていたから、以前のままであれば彼女に出会うことはなかったのである。
顎を汗が伝っていた。勝手に杖を持つ手に力が入る。彼女は押し黙ったまま僕から目を逸らすように繋いだ。
「身構えなくても結構ですよ。ネギ先生に危害を加えるつもりはありませんから」
一人でいる彼女の持つオーラというものは、相手に緊張をあたえる。僕もそれを受けた例外ではなかった。
「いえ、そんなこと。それよりも刹那さんは何故学校を辞めてしまったんですか」
悲しんでいる人がいるのに。
「それは……」
「泣いていました」
「分かって、います」
「今でも思い出しては泣いています」
「分かっています」
「嘘だ。わかってなんていません。実際にあの時の木乃香さんを見ていないからそんな事が言えるんですよ」
「分かっています! ただでさえ明日菜さんの死を悲しんでいたお嬢様を追い込んだのは、私だということも、分かってるんです」
それ以上追求するのは躊躇われた。そんな彼女に投げつける言葉を持っていない、といえば聞こえはいいが、その実、自己嫌悪に追い込まれていたためだ。
叫んでいるはずなのに、先ほど出会ったときよりもぶつけられる気迫が薄れていたのだった。しまった、と思った。夕凪が震えている。彼女は、強い。こんな時にも涙を流さない。
「すみません。取り乱してしまいました」
「あ、いえ僕も。……」
なんだというつもりなのか。ああいえばこうなることは、容易に想像する事ができたはずだった。注意を怠ったのだ。結果、一人の人をまた悲しませる。――最近こういう事が増えた気がする。木乃香さんに、エヴァンジェリンさん、そして目の前の刹那さん。いずれも僕の不用意な発言が彼女達を切りつける。涙をながす。
僕は死に際の明日菜さんの涙を、薄っすらとだが思い浮かべていた。泣き顔は僕を彼女の元へと駆り立ててしまう。
「ネギ先生?」
は、と意識が引き寄せられた。目の前の少女は、どこか居心地が悪そうに、本来の大きな瞳を細めてしまっている。
思い出す。思い出してしまった。
「すみません、刹那さん。なんでもないんです」
蹴って遠くに押し込めていた一粒の小石が、いつの間にか成長して僕の心にぶつかってくる。鈴の音が、走ろうとする足首に絡み付いて離れない。
失敗した。杖を使えばよかった。
――ネギっ
囚われた僕は、今日もそれを振り切れず、その場に立ち尽くしていた。


  †  †  †  †  †


暑さにオコジョも倒れるよな昼間から一転して冷えた風が頬をなぶる頃、そこに一人の少女が居た。今から二週間程前のことだ。
世界樹と呼ばれる大木の下に佇む少女は、さながら青々しい草木に降り注ぐ残光のような雰囲気を帯びている。
「本当に辞めてしまうんですか」
窓から彼女の姿を見つけ、慌てて降りてきた僕の問いに、細身の体に剣を携えたままの彼女は静かに頷いた。
「何故です。学生のままいつも近くに居るほうが守れるじゃないですか」
外側からは見えなくても、内側に入り込めば見えるものもある。潜入操作などまさにその例だろう。
「志が弱かったんです。お嬢様をお守りするというのが私が存在する唯一つの理由だった。にもかかわらず、初めて得た幸せや楽しさに身を浮かべてしまった。お嬢様と居る事が嬉しくて楽しくて、周囲の変化に気が回らず、結果お嬢様を悲しませることになってしまった。――護衛、失格です」
黙って聞いていた。口を挟むのも無粋だと思った。
「そんな私がお嬢様の傍でお守りするなんて、おこがましいにも程があります」
彼女は自嘲的な笑みを浮かべる。壊れているのは、彼女もなのかもしれない。もちろん他は、言うまでもない。
「逃げるんですか」
現実から、彼女から。
自分の事を棚に上げてよくも、と、頭の隅で何かが叫んだ。
「木乃香お嬢様をよろしくお願いします」
走り去っていく剣士を、僕は見送ることしか出来なかった。

だから先ほどのは僕にとって気まずい再会であった。
よろしくといわれた彼女を、自分の闇に引きずり込んでいるようなもの。傷を癒すのではなく、お互いに擦り付け合って、また傷ついて、それでも止められない。
刹那さんには恨まれて当然の事をしているのかもしれない。だが、思ったように物事がすすむことなど、そうそうはないのだ。それが受身を知らない少年や少女であればなおさらのことだろう。
と、こうして自分をフォローしてはみたが、ただ虚しいだけに終わった。
溜め息を無理矢理吐き出し、低い空を仰ぐ。こんなにも淀んだ気分なのに、空は絵の具から捻り出したみたいな群青で塗られている。
それから彼女と会うのは、秋も深まった京都でのことだった。




××× NEXT ×××

+ 中書き +
せっちゃん出てきました。この話の三大ヒロインのうち二人が登場です(何。
ネギの中では大分明日菜のことが薄れているようで、実は全然記憶にこびり付いてましたね。
いつか忘れさせてくれる人があらわれるのか、それとももう現れているのか、はたまたそのまま明日菜を思い続けるのか。
いや、実はもう決まってたりするんですが・・・・。
ただハッピーでしょうがないエンドにはならないと思います。
2007.2.21