アネモネ
― 1日目 ―


 体育館に寝そべる少女は一言だけ呟く。そのあまりにも広い空間で、独りで。
 ごめんね。
 それは果たして、誰に向けたものなのか。

 孤立したカラダ、孤独なココロ。
 それぞれは独立しているようで、連綿に花を咲かせる。


「ネギく〜ん、おっはよ!」
「うわわっ、ま、まき絵さん」
 今日もまき絵はネギの元へ走っていく。その姿は愛らしく、こちらまで微笑を誘うものだった。
 仕方ないな、まき絵は。裕奈は思いながら、笑う。
「ちょ、危ないですよ」
「えっへへ〜。スキンシップだよっ」
 ネギは顔を真っ赤にしながら押しのけるが、どこか楽しそうにしている。その一連の情景を見ていると、笑っていた口元がいつの間にか一文字に閉じられていた。
 昨晩、まき絵が部屋に来てした話が思い出される。アキラは疲れていたのか、眠っていた。
 ――昨日ネギくんとしちゃったんだ。
 付き合っていることは知っていた。だが突然のことに、裕奈は息さえ止まった。それは突然だからというだけではないだろう。
 何か言わなければならない。そう思えば思うほど、口周りの筋肉は硬化していく。
「ごめん、私ばっかり喋ってるね――、ゆーな?」
 ようやく開いた唇は、笑顔と共に一言だけ呟いていた。
「まき絵は幸せものだね」
 まき絵はその言葉に込められた意味など考えず、うん、と笑い返す。
 それからも、部屋にはまき絵の嬉々とした声が、ずっと行き交っていた。


 息が切れている。頬から首筋へ、そして胸元へ汗が伝って落ちた。
 もう何時間になるだろう。静まり返った体育館には、ずっとボールが床にぶつかる音が響いていた。
「ふう。今日は一日まき絵にあてられちゃったにゃー」
 ちょっとしたミスでボールが手から離れ、転がっていく。それを機に、裕奈はフロアに寝転がった。熱を持った体が冷やされて気持ちがいい。
 裕奈は瞼を閉じた。ただっ広い空間に一人でいるというのは、思ったよりも寂しさを感じない。孤独がないといえば嘘になるかもしれないが、孤立を感じることはなかった。それは今よりも、試合で仲間がパスを回してくれなかったときの方がよほど感じていた。
 必ずゴールを決めるよ。
 そう言っておきならがら外してしまった自分には、何も言えなかったけれども。
 そう、なのに。この胸に広がる虚無感はなんなのだろう。口の中がやけに塩辛くなってきて、体中が震えて止まらない。
 ――助けて、……ネギ君。
 裕奈は瞼を閉じているにもかかわらず溢れてしまう涙が鬱陶しくて、腕でぐいっと拭う。視界をぼやかせながらも目を開くと、誰も居ないはずの体育館に長い影が伸びていた。
「ゆーなさん?」
 本来はちっちゃなはずの先生が、体に似合わない大きな影を引き連れてそこに立っていた。
 裕奈は慌てて上体を起こす。
「どうしたんですかゆーなさん。もう鍵閉めちゃいますよ」
「あ、そっか。ネギ君鍵当番なんだ」
「はい、でも麻帆良は広いから人数分担してますが、それでも沢山ありますから」
 ははは、とネギは苦笑しながら目元を緩める。そのちょっとした表情の変化に、裕奈の心臓は波打った。
「偉いね、ネギ君は。お疲れさま」
「いえ、教師、ですから」
 にこりとわらう、少年。否、少年と呼ぶにはあまりにも大人びて裕奈にはみえている。まき絵の、以前言っていた『可愛いじゃなく格好良い』の意味が、今なら分かる。
「ねえ、ネギ君。何で人がいるって分かったの?」
 気になっていた疑問をネギになげかける。
 陽はほとんど沈みかけていた。目に痛い程真っ赤だった陽も色を失い、電気はついていたとはいえ、人一人いたところで見落としてもおかしくはない。
 尋ねると、ネギは少し戸惑いながらも口を開く。
「音が、聞こえてました」
 バスケットボールの。ネギは近づきながら続ける。そして目の前に立った。座り込んでいる裕奈の視線の少し上に、ネギの顔があった。
「そっか」
 裕奈は顔を逸らし、答える。目が赤くなっていることに気づかれたくなかったのだ。
「バスケをしている時のゆーなさん、とても綺麗で、……格好良かったです。凄かったですよ」
 その声は酷く穏やかで、裕奈の逸らした目を再び引き戻す。ネギは笑った。そうしてただ、純粋な瞳をぶつけてきた。
「僕、そんなゆーなさんの姿を見たくて、実はこっそり応援に行ってたんですよ」
 ネギの右手が頬を包む。冷えていて、裕奈にはちょうどよかった。
 酷い言葉じゃない。優しい言葉をくれているのに、目の奥では納まったはずの激流が再び戻ってくるのを感じる。無理矢理氾濫を止めたせいか、それは先程よりもより強く裕奈を襲う。
 唇が震える。それでもぐっとくい止める。
「いつも皆に笑顔を与えて、頑張ってる裕奈さんが好きです。だから笑ってください。裕奈さんのそんな泣きそうな顔みてると、僕まで悲しくなります」
 それなのにネギは、いとも簡単に突き破る。ネギが小さく笑って、やさしく軽く押すだけで、それは壊される。堤防を失い、押し寄せた流れに飲み込まれる。それは敗北。
「ネギ君、……酷いんだね」
「え?」
 裕奈は、触れていた手を自分の方に引き寄せていた。
 頬を伝って零れたものに、自身さえ気付かなかったのは、幸せだったのだろう。おそらく、暗闇に浮かぶ蝋燭の燈(ともしび)ほどには。

 円環は巡る。半日以上その姿を晒していた陽も、また消えていく。自分が回るが故に、それは姿を消していく。
 明かりは一つ。扉の入り口でその存在を示しているのみ。
 もはや影すらも闇と同化してしまっている時刻、二人はお互いの身体を密着させ、鼓動を間近に感じていた。
「ゆーなさん。……僕は」
 吐息が耳朶を掠め取っていく。それだけで、裕奈は身震いする思いだった。それが、自分に好意的なものでないとしても。
「何も言わないで」
「……」
「何も言わないでよ……っ」
 悲痛な声が体育館に響く。
 分かっていた。彼が既に、他者のものであるということくらい。他者、それが親友であるまき絵のだということくらい。分かっている。自分はそれを笑って認めた。
 だからこれは裏切りだ。
 それでも身体は思うように動いてくれない。腕はこれ以上になくネギを抱きしめているし、服から露出した手足には彼が感じられる。――思うように動かないはずがない。これは、裕奈の思っていることだったのだから。
 裕奈はそうしようとして、そうしている。
 抱きしめたくてネギを抱きしめ、そしてキスをする。
 キスとは名ばかりの、ただ片方だけの気持ちしかない、皮膚の接触。ちいさな口腔にもぐりこみ、舌を絡めとる。だがそれは、ネギに抵抗する意思さえもたせないような弱々しいもの。
 震える唇をネギは感じているはずだった。だから、突き放そうと思えたのに、しなかった。
 ネギは優しい。そしてそれ故に。
 ――酷い、よ。
 顔を彼から放して、裕奈は俯く。スーツを握り締める、指に力がこもる。
 漏れる嗚咽は塞ぎようがなく、またその余裕もなかった。彼に触れているのに、何故こんなにも悲しいのか。
 ネギは裕奈の名前を呼ぶ。悲鳴を漏らさない裕奈を落ち着けるように、ゆっくりと肩に手を添える。
「ごめん」
 額を、自分に合わせて座ってくれた彼の胸に押し付ける。
「ごめんなさい」
 ひたすらに。
「何故謝るんですか」
「私、……まき絵を傷つけてる」
「ゆーなさん……」
「ごめんね。……ごめん、なさい」
 裕奈にそれ以上の言葉はなかった。
 喪失した想いの断片が遠くに飛ばされてしまったみたいに、あるいは握りつぶされてしまったみたいに、姿を消している。
 ネギもそっとそれを抱き締めるしか選択がなかった。検索をかければ見つかったかもしれない。だが目の前の人の姿は、彼の中にあった明石裕奈という人の印象の欠片もなく。それをさせない。もちろん裕奈がそれを計ったわけでもない。
 頭にのせられた掌は思ったよりも大きい。今このときは年齢など互いの頭にはない。
 裕奈はネギを一人の男性として、自分の心に閉じ込めている。
 ネギは、普段の稚気を全く見せない裕奈に、心が軋む。自然、裕奈の頭を撫でる形になる。
 誰にも邪魔しえない空間が凝縮される。だが永遠になどと言うものがないのと同じように、それは突如として終わりを見せる。
 背後での足音に、彼だけが振り向く。
 入り口にだけ灯されていたライトがその人の全身を映し出すと、ネギは息を呑んだ。その機微を、裕奈は敏感に読み取る。
 そして、彼を解放した。
 出来る限りの力を腕に込めて、彼を突き放す。それは優しさ。
 顔を上げてみた彼の表情が、悲しさに染められていたことさえ、裕奈は嬉しく思う。それは直後に見た親友の姿で覆い隠されてしまうのだが。
「ネギくん、いる?」
 数秒の空白。闇に溶ける二人の姿は、彼女の目には映らないようだ。
 ネギは自分を見る。表れているのは剣呑。裕奈はできる精一杯の笑顔を、彼に見せた。
「おーい、ネギくーん。うむむ、ここにはいないのかなあ」
 振り切るように立ち上がった彼は、裕奈をひとたび見やり、名前を呼ぶ少女に応答する。
「いますよ、まき絵さん」
 まき絵と呼ばれた少女の顔は途端華やぐ。
 先ほど裕奈が見せた笑顔とは比べようもない、一切の負を持ち込まないものだ。
 ネギはまき絵の元に、小走りで駆けていく。裕奈の笑顔から、ここにいることを知られたくない、という心情を感じ取ったのだ。それが真実かは裕奈だけが知っている。
 裕奈は二人が体育館から出て行ってから、更に俯いた。自分は今、まき絵のなかには存在しない人物である。ネギとまき絵だけの世界が繰り広げられているだろう。
 ついさっきのことすら現実と剥離したもののように思われる。だが現実。妄想でも、なんでもない。自分は確かにネギに縋り、口付けをした。抱き締めてもらい、頭を撫でてももらった。
 妄想だと。想像だと思いたくない。
 自分のしたことに、裕奈は後悔すべきだ、と強く思った。
 だが、どうしても後悔しきれない自分がいる。全ては矛盾に満ちていた。
 声が漏れる。押さえ込めない嗚咽が溢れる。
 裕奈の落とした視線の先には、涙が滴り水溜りを作っていた。
「く……っ、ふ……ううぅぅ……」
 ついた両手を、フロアの上で握り締める。胸のうちに溜め込むように、懸命に感情の放流を抑えようとする。
 だがカーテンで陽を完全に遮断できないように、彼女の口からは小さな呻きともとれる声が溢れだす。
 想うは、ネギ。たった一人の、愛しい人。
 裕奈は腫れた眼を水で冷やし、アキラと顔を合わせないよう就寝した。泣き疲れた所為もあったか、寝つきは直ぐに訪れた。
 裕奈は瞼を伏せる。これ以上悪い夢など、見ないように。



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