アネモネ
 ― 2日目 ―


 少年は夢の中にいた。淡い虹彩が突きつけてくる。
 光の中で泡沫と戯れ遊び。
 傍目には変哲のない光景だった。ただ少年に笑顔はなく、また少女にも笑顔はない。それ以外は。
 互いに沈んでいこうとして、それでもお互いがいるが故にそうできなかった。
 少年は少女に告げる。
『もう、悲しませたくない』
 少女は少年に告げる。
『大丈夫、もう困らせないよ』
 笑顔を消したくないから、と。
 お互いが、お互いを思っているが故に消えた笑顔が、誰よりも好きだったから。
 例え少女の方が強く少年を想っていたとしても。少年のほうが先に少女を想っていたとしても。
 笑う。
 差し延べる手はないけれど。触れることは出来ないけれど。
 泡沫が弾けて消えていく。夢が終わる。
 少年は背を向ける少女に叫んだ。名前を、大声で少女の背中にぶつけて、――すり抜けた。


 目を覚ますと、そこは薄暗い闇の中であった。
 勢いよく飛び起きたがために頭を天井にぶつける。幸い声を上げることはなく、同室に眠る少女二人を夢から引き剥がすことはなかった。
 胸を撫で下ろす。顔を洗い、服を着替える。世界樹広場へと駆けていく。
 心に秘めた想いをふりきれないまま、ネギ・スプリングフィールドの一日が始まる。
 単調だったはずの日常は既に終わっていた。幸福の渦に飲み込まれていくだけだった自分を、彼は思い返す。それは確かに幸せで、心地良かった。もちろん現在進行形である。
 一つだけ気になるとすれば、昨日目にした、一人の少女の涙であろうか。
 彼にとって、あれほどまでに感情をぶつけられるのは初めてのことだった。今でも心を突き刺す。
 ――ごめん
 彼女は繰り返していた。彼女にとっての、何かの呪文なのだろうか。
 彼女は繰り返していた。
 ――ごめんなさい
 逃げるように抱き締めた自分を思い返しては、地面を蹴る足に力がこもる。
 ――私、……まき絵を傷つけてる
 そんなことはない。一番傷付けているのは、自分なのだ。
 登校中、ふと空をネギは仰いだ。前方からかっと晴れた少女の声が響くが、それも彼には届いてはいない。
 葉が青く茂るのも手伝ってか、彼にはやけに空が白く見えた。淡白な色の空は、まるで昨夜の夢の情景を思い起こさせる。
 白んだ空には距離感がまるで感じられず、本当に自分が地面の上に立っているかどうかも怪しい。
「ネギくん」
 不意に名前を呼ばれ、ネギは首を傾けた。ローラースケートを駆使し、明日菜や刹那の人離れした運動能力に追いつこうとする木乃香が、彼の顔を見詰めていた。
 余所見をしていると危ないよ、と忠告しようとしたが、つい先ほど自分が同じ事をしていたのを思い、自嘲的な笑みを浮かべる。
「そないに真剣な顔で空なんて見上げて、どないしたん。悩みでもあるん」
「なんのことです?」
 ネギは嘯(うそぶ)く。彼女は大切な人の一人だ。むやみに心労を分けることもない。
 彼が言うと、木乃香は、ふうん、と前方に視線を戻しながら呟いた。
「まあ、ならええけど。あんま気張らんと、何かあったら言うてな」
 苦笑で返しながら、ネギは思っていた。きっと、彼女に言うことはないのだ、と。それを見抜いていたからこそ、木乃香の表情は愁色にまみれていたのだ。
 ネギがそれに気付くことはない。彼の思考は、既に違う人物によって支配されていたのである。
 彼の表情は、学園に着いてからも晴れることはなかった。先に向かわせた木乃香の背中を眺めることなく、むしろどこも視界に入れずぼんやりと、迷わない程度に道のりを確認している程度だ。
 職員室を出て、教室に向かう。体の芯が異常に暴れている。押さえるために、一呼吸して扉に手をかけた。
 ――大丈夫なのだろうか。
 彼女の。桃色の髪を小さなツインテールにした少女に笑顔を返せるのだろうか。
 彼女の。焦色の髪を左に結った少女の顔を見る事が出来るのだろうか。
 それだけではない。他の皆に感づかれてもいけない。
 ネギは担任だから。担任が生徒に心配をかけるようになれば終わりである。
 息を大きく吐き出して、扉を開いた。
「あっ、ネギくんだ」
 足を踏み入れようとした時、第一声が掛かった。桃色の髪を振りながら、その少女は笑顔で手を振ってくれた。本当に、彼女は期待を裏切らない。
「あはは……おはようございま……」
 期待を裏切らない彼女に、手を振り返すことはネギには出来なかった。
 見渡しても見つかることのない、もう一人の少女が背後にいたのだ。
 それは晴れやかな笑顔。昨晩の出来事が、深い海に沈んでしまってしまったかのように、錯覚してしまう。
 ネギが戸惑っていると、彼女はより一層その笑顔を深めた。
「どうしたのかな、ネギ君。入らないと皆が、っていうかまき絵が寂しがってるよ」
 普段と代わりようのない笑顔。
 それにネギは、もう彼女の中で解決してしまったのではないかと思ってしまう。それほどまでに彼女は笑顔だったのだ。
「おはよ、ネギ君」
「裕奈さん、……いえ、おはようございます」
「うんっ。それじゃ入った入った」
「うわわっ、ち、ちょっと押さないでくださ……うわああ!」
 次の瞬間、壮大な音を立ててネギは教室に転がりこんだ。チョークの粉がスーツに付着することはなんとか防げたのだが、なんとも情けない姿で床に伏している。
 背中を押した張本人は、頬を人差し指でかきながら、笑っていた。
 彼女の笑い声は、皆の騒ぎ立てる声に埋もれることなく彼の元に届く。
「まったくもう。ネギの馬鹿は、何やってんのよ」
 明日菜のそんな呟きも、彼を変わらぬ日常に引き戻していた。

 師匠(マスター)であるエヴァンジェリンとの修行を終え、ネギは体育館へと向かっていた。
 練習を見るためである。もはや日課と化したその道のりを歩くのは、一人の少年。
 ネギは考えていた。昼食の時の、少女達の様子が気になった。
 まき絵がネギの元に笑顔で来るのも、それを茶化す裕奈と亜子とアキラもいつも通りだった。
 ただ、裕奈のそれは、違うように見えたのだ。悪巧みをする子供のような表情を以前はしていたのに、最近はただ笑ってまき絵を追い立てていただけ。今日は姿さえ見つけられなかった。
 ――考えすぎだろうか。
 ネギは思考をそこまで飛ばして、自分が既に体育館前にいた事に気付く。
 人が賑わっている。数人が彼の元へ近づいてくる。挨拶を返し、体育館に踏み込む。
 まずはバスケ部を探した。バスケ部自体の人数はそう多くはないから、なかなか大変だったが、それでも見つけられた。
 サイドテールの少女をこの人ごみで溢れかえった空間の中見つけた瞬間が、ネギは堪らなく好きだった。
 声を掛けることはない。
 邪魔をしてはいけない、と見つからないように二階の応援席のような場所から眺める。時が進む。
 こうして練習を眺めていると、自分と世界が隔離されているような気分になり、それも心地良かった。
 裕奈を見詰める。
 時間が進む。彼には、進みすぎている気さえする。
 クラスの皆といる時とは違う真摯な姿に、目を奪われていることなど彼は知らない。
 若干低めの掛け声に、周りが動く。ゴール下に切り込み、ジャンプショットを打つ。あるいは、自分から見れば十分巧みなドリブル捌きの人を素早い動きで回り込んで止め、腰を低くしてボールを奪い、取る。マークがつかないうちに、味方にパスを回し、得点にする。
 見事にシュートが決まれば、自分であれ仲間であれ、あるいは敵チームでさえ笑顔をこぼす。
『あっちゃあ、やられたなー。上手くなったじゃん! この調子でねっ』
『ドンマイっ。大丈夫大丈夫。また取り返せばいいんだよ』
『ナイッシュ!』
 ネギはひとたび目蓋を落とした。
 そう、ネギは、昨日より前の裕奈の声を聴きながら、目蓋を落としたのだ。
 今日声を出しているのは、裕奈ではない。
 裕奈には覇気がなかった。いや、逆にありすぎて空回りしていると言った方が正しいのか――。ネギには説明がつかない。
 日中クラスで笑顔を見せていた彼女の姿は、この体育館には何処にもない。
 ――裕奈さん……。
 彼女の気持ちを知ってしまった、昨日の夕間暮れを反芻する。否、正確には頭からはなれないといった方がいいのか。
 ネギは、限られた範囲を駆ける少女を眺める。心に絡みつく一条の想い。細く目を凝らさなければ見えないほどの、しかし確かに存在する頑丈な糸。ピアノ線にも似たそれは如何様にすれども、ほつれることなく肌理(きめ)の細かい網目を描く。
 逃さないように――。
 バスケ部の隣では、新体操部が練習をしている。だがネギが、リボンを手に宙を踊る少女を想像することはない。
 それはネギの無意識の範疇(はんちゅう)に潜む事実。
 意識下の元に制御された思考の空間では、それほど遠くない昔の映像が繰り返される。
「付き合ってくれるかな」
 薄暗い体育館の中、ポツリと佇んだ桃色の髪の少女。儚げな姿に、ネギの心は揺らぐ。揺らいで膝を突きそうになって、押し留める。
 生徒でもある、好きな人の親友――自分にとってそんな立場である彼女の言葉の真意を掴もうとして、聞き入る。
「大好きなんだよ、ネギくん」
 か細い声と、緩やかな黄昏を邪魔する小雨が鼓膜を打つ。
 彼女はジャージ姿だ。雨に打たれたのか、服も髪も濡れてしまっている。
『拭いてくださいっ、タオルもってきますから』
 動揺したネギの口から、そんな労わりの言葉は流れ出てはこなかった。
 数歩離れた場所で笑う少女から、目を離せない。頬に伝うのは雨ではないと、暗がりでありながら確信していた。
「裕奈はきっとネギ君のことを、ネギ君が裕奈を想ってるほど好きじゃないよ」
「僕は……別に……」
 言いながら、耳を塞がなかった事を後悔した。
 ――ネギ君が裕奈を想ってるほど好きじゃない
 壊れたテープレコーダーのように無機質に脳内で繰り返される。操作する人の意思など無視をして。
「分かるよ。大好きなネギくんのことだから……分かっちゃうんだ」
 まき絵は笑う。苦しそうに。
 気付いたネギは、慌てて視線を逸らす。やましい事などないはずなのに。理不尽にそのようなことを言う彼女こそ目を逸らすべきなのに。
 だがこの時逸らしたのはネギ。言葉どおりの真っ直ぐな想いが、脇目も振らず突き刺さってくるのだ。避ける手段などない。彼女の顔に視線が向かう。
「……私は自信あるよ。裕奈よりも、誰よりもネギくんの事が好き」
 何かがあったのか。それともすすり泣く空に共鳴を受けたのか。
「暖めてあげるよ。守ってあげる。……心を、守ってあげるよ」
 まき絵は近づいてくる。リボンはその手から滑り落ちて――ネギのすぐ目の前に立つ。
 少し高い位置にある顔は、水が滴りながらも端麗である。心そこにあらずとも、その少女にどきりとしないわけにはいかない。ネギは再び顔を逸らし、斜め下に視線を落とす。
「僕は何もしてあげられません。それどころかきっと、まき絵さんから笑顔を奪ってしまいます」
 フロアに視線を這わせたまま。
 点された体育館の照明が、丹念に磨かれた床に反射して眩しい。
 まき絵の笑顔、――裕奈の笑顔が数条の糸になって、絡み付いてくる。
「ネギくんは、いてくれるだけでいいんだよ。それだけで、私は笑えるんだから」
 ネギは呼吸の困難さを感じる。何故だろう、泣きたい気分でいっぱいになる。やりきれない。大切だったはずの想いが、道端に零れてしまったかのようだ。どこかで失くした。どこに、失くした。
「私の恋人になってください」
 ネギの心はまき絵にはなかった。それでもネギは頷けた。
 自分の想いが報われないならば、彼女の想いに報いる方がいい。なにより、自分に力をくれていた彼女の笑顔を自分が消すことになるかもしれないという恐怖。
 ネギは疲れていた。
 まき絵はいつもネギを包んでくれる。安心して帰れる場所を提供してくれる。ネギにとってそれはとても魅力に映った。――ネギこそ疲れていたのだ。見えない背中を追うことにも、報われない恋情を頼りに生きていくことにも。果てなく遠い先にある目標に手を伸ばすことにも。
 すっかり冷えてしまった唇に重ねる。おそらくネギが先だった。まき絵も受け入れる。十分にそうした後背中に腕を回すと、お互いの体温に差を感じなくなるまで抱き締めあった。
 ――随分昔、だけど時間的にはそれほど離れていない昔に想いを馳せるネギが戻ってきたのは、ちょうど昨日のような黄昏時。ネギは、自身を見上げる視線に気付いた。

 華やかにそそり立つ花の弁はもがれて。拾い集め抱くのは地に伏した花弁。
 感情のまま握り潰せば掌で濁った色が染み出している。
 傷口から滴る汚れた血のような色に、親しみを覚えるのはきっと。――きっと、傷ついていると知ったからなのだろう。
 そして少女は呟く。
 二人きりの空間で。彼の言葉は吐息のように酷く白く煙った。
「会いたかった」
 今この時傍観者がいたら、彼女の表情を必死で探ろうとしただろう。

 体育館にまだ幾分の喧騒が残っていた頃、まき絵はリボンを手にしてはいなかった。
 花壇に植え込まれた紅い花を横目に通り過ぎながら、愛しい人を探して翻弄する。教室を。職員室を。グラウンドを。彼女は探して回る。
 特に用事があったわけではない。ただ会いたいと思ってしまったのだ。一度そう思えば彼女はすぐに立ち上がる。そして駆け出す。その人に向かって。
 その最中、見慣れた淡色のショートヘアを見つける。日は翳り始めていた。屋根の向こう、少しだけ太陽が隠れている。
「あっ、亜子。ネギくん見なかった?」
「ネギ先生? いや、見てへんで。どないしたん」
「んー、まあ」
「用があるなら、見つけたら言うとこうか」
「いいよ。そこまでじゃないから」
「まき絵?」
 気付けば亜子のすぐ傍にいるアキラを見つけた。部活は終わったのだろうか、彼女は水泳バッグと学生カバンを肩に下げている。
「ネギ先生なら、体育館で見たけど。まき絵を見に行ってたのかと思ったよ。……違うんだ」
「え。今日は私クラブ出てなかったんだけど、そっか。体育館にいるんだ。変だなー」
「あ、もしかしてまき絵見にいってんけど、おらへんで探してたんかも」
「伝えてなかったの?」
「うー、そういえば昨日もネギくん体育館にいた気がする」
「ほんまなん。先生も忙しいのに、そゆことはちゃんと教えてあげなあかんで。付き合ってんねんから」
「……うん。そだね」
 喧騒の残骸が漏れ聞こえてくる。
 体育館前の広場で、まき絵はベンチに座った。二人は先に寮に戻ることにしたようだ。歩く人は疎らで、陽も半分以上沈んでしまっていた。
 会いたかったのに、何故か足が重い――。
 まき絵は何気なく頭のリボンをほどいた。何度が手ぐしで髪を梳き、跡が付いていない事を確かめる。
 ――綺麗……ですよ。まき絵さん。
 真っ直ぐな髪。彼が誉めてくれたもの。それ以来彼女は手入れを欠かしたことなどない。
「えへへ……、なんだかまた会いたくなっちゃったな」
 彼女は軽くなった腰を上げて、目と鼻の先にある体育館へ向かった。

 彼女は見上げる。
 ユニフォームに身を包み、汗を芳香として一人の人を見上げている。
 彼女と目が合った。もしくは、ずっと以前から目線は交わされていたのかもしれない。
 誰もいない体育館。太陽の光などもはや頼りないもので、人工の照明だけがお互いの姿を形作っていた。
 身動きが取れない。吸い込まれるように、その姿に惹かれる。
 時間が停止しているのかと錯覚してしまう。風の流れを感じない、たった二人だけの空間だ。
「会いたかった」
 表情を読取るには、その距離は少し遠くて。彼女の声だけが頼りで。
 誰も居なくてよかった。でないと彼女の小さな声を、きっと届けてくれないだろうから。
「会いたかったよ……、ネギ君」
 ネギは衝動のまま、手すりを越えて階下に降り立った。
 軽やかな動作を、裕奈が驚くことはない。あの茶々丸との戦闘や日頃の身のこなしを見ていればわかる。彼は普通の少年ではないのだと。
 そんなところも、裕奈の心を惹きつけたのだろうか。
 はじめは、そう。だったに違いない。だが視線を這わせるうちに、神経をネギの方へと向かわせる度に、自分の中に一滴の想いが溜まった。それは見る間に増殖を始める。
 手伝ったのは、ネギの勇姿。
 笑顔で胸に落とされた、一粒の甘い雫。
『裕奈さん、大丈夫ですか』
 染まっていく。簡単に。落ちていく。
『裕奈さん!』
 練習を見に来ていたと気付いていた。でなければ、どうしてあのような些細な怪我を見つけられるのか。
 新体操を見ていれば分からない程度の、騒ぎ。ちょっとした捻挫。ネギは考えることなく裕奈の元へ向かった。そしてその身を抱き上げてくれて。
 ネギが顔をあげて自分を見てくれている。それだけで、裕奈の昂揚は加速する。耳が熱い。
 親友のことが頭を掠め取っていったのに、治まらない。もう彼の身体に触れなければ、安心できない。
 ――ネギは、気持ちを押し殺すように目元をに力をこめた。そうでもしなければ、何かが溢れてしまいそうだった。
「なんで……」
 目の前の人。ずっと見ていた人。いま自分の目の前にいる。
「なんで、私のことなんて気にかけるの……?」
 温めてくれた、心を守ろうとしてくれていた少女が、彼にはいる。――なのにもう、彼女の名前しか脳裏を駆け抜けていかない。
「なんで、まき絵と付き合ったの……?」
 だからネギに言葉はなかった。
 ネギの両手が、彼女の肩に触れる。
「酷いよ、……ネギ君」
 悲鳴に似た呟きを、包み込む。後に残るのは、静寂の中の囁き。
 ただそれだけだった。



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